肚(はら)からの言葉

Posted by michikosayura on   0 comments

先日、お会いするのは二度目のRさんから電話があって、わたしのフェイスブックの投稿を読んで話したいことがあるとのことで、おとといの夜にさゆらにご夫婦で来てくださった。
Rさんは、今ご夫婦である非二元のティーチャーの英語の本を翻訳をされている。
実はこの本が翻訳されるのは二度目。
英語圏が出身の旦那様がその本を読んだ時、訳が正しくないことに気づき、そのティーチャーの了解を得て翻訳をし直しているということだった。
わたしもあまりはっきり覚えていなかったけど、わたしが投稿に書いていた「本質の意識」のことを言い表したある言葉が、そのティーチャーの言葉を訳するのに一番しっくり来る、とRさんは思ってくださったそう。
でも、オブザーバーになっているもう一人の日本人の方が、その言葉が文法的に間違っていると指摘したそうなのだ。
確かに、言われてみたら文法的には正しく無いと思った。
でもRさん、旦那さん、わたしで検討すればするほど、やはりその言葉以外にしっくりくる言葉が無いのだった。
これは面白いことだなーと思った。
そもそも、決して言葉で表現することは不可能な世界の話だ。
わたしは「あの」ことを表現するには、言葉よりも芸術や詩の方が適していると思う。
詩は、文法から自由だ。
文法の枠に捉われない、予測不可能な言葉の並びに、人は既成概念を揺るがされる。
それは詩の持つ力の一つだと思う。
別にわたしの言葉はちっとも詩的ではなかったのだけど、「肚(はら)」から出た言葉は、時に文法の枠をはみ出していることがある。
それは不思議とバイブレーションになって人に伝わるものらしい。
Rさん自身、強烈な「意識体」(とRさんは表現されている)との遭遇体験をしている。
わたしの投稿を読んで、自分の体験に通じるものがあると思ってくださったそうだった。
その「意識体」との遭遇体験後、Rさんは同じ経験をした人をあちこちに探して回ったという。
誰かに、その体験が何だったのかを説明して欲しかったと言われていた。
Rさんはそれから分離の世界に戻ることは無かった。
「わたしは(分離に)戻るんですよねー」と言うと、ちょっとびっくりした顔をされた。
ワンネスを体験した後、また分離の世界に戻る、ということが理解できないという感じだった。
「いやー、わたしなんかそんなもんですよー」となんかRさんをがっかりさせた気がして申し訳ない気もした(笑)
その後アジャシャンティの本の帯に書かれている「定着しない目覚め」という言葉を見て、「へえー、そんなこともあるのねー」と言われていた。
ええ。あるんですよ。(頭かきかき)
てか、そっちの方が圧倒的多数なんです。
・・・・なんか、自分がかいかぶられたみたいでちょっとバツが悪かったなぁ。
でもあの場でお話ししたことが、Rさんご夫婦の翻訳作業に少しでもお役に立てたらいいなー。

夕べは原マスミライブへ。
原マスミを聴くようになったきっかけはバンドのボーカルだったナツキがファンだったからだ。
ナツキは高校生当時、地元の劇団の若き看板女優で、原マスミの熊本初のライブはその劇団の拠点「夢桟敷」であった。
ゆうべの原さんのMCで「熊本で初めてライブをした夢桟敷というとこに来てた高校生が・・・」みたいな話しが出て隣の由美ちゃんとつつきあって笑った。
原さんはつくづく不思議な人。ぜったい地球人じゃない。
修行僧のようなオーラの時と、小さな子どもみたいなオーラの時、顔も声も表現も目まぐるしく変化する。
夕べも最後の一曲「夜の幸」で、宮沢賢治の「注文の多い料理店」序文をギターフレーズに乗せて朗読してくれた。
「すきとほったたべもの」という言葉。やっぱりすごくいい。
あー、そうだ。賢治の言葉こそ肚からの言葉で、文法なんて二の次になってるじゃないか。








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