信仰・犠牲

Posted by michikosayura on   0 comments

映画「沈黙」のことをあれから考えていて(まだトラウマを引きずっているらしい)、自分が禁教令の敷かれた日本で宣教師という立場だったら、信者である民衆になんと説くだろうと思った。
わたしならまず、信仰とは心の次元でのみ可能なものなのだと言う。
だから、踏み絵を踏んでも、十字架に唾を吐いても、心の中の信仰は誰にも侵されることは無いから大丈夫だと。
そして何より、あなたがたの苦しみは神の苦しみだから、あなたがたが苦痛から解放されることを何より神は望んでいると。
苦痛を選択することを今すぐにやめなさい、と言うと思う。
自分を苦痛から解放することは背信では無い。
肉体は無なのだから、肉体の苦痛を引き受けることを信仰の証しとすることには意味が無い。
神はあなたがたの幸せ以外、何も望んでいない。
だから、今すぐに苦痛から、苦難から逃げなさい。と説くと思う。
そう教えることで多くの命が助かったかもしれない。
宣教師自身の命も。
最後に「転んだ」(棄教した)二人の宣教師が聞いた声も、そう語ったのだろうか。

今日は午前中に叔母に会いに行った。
偶然、月に一度のホールでの昼食会の日で、いつもより豪華なお昼ご飯が出た。
もちろん、わたしは食べずに介助していただけだけど。
もう100歳近くの元エレクトーン教室の先生だったおばあちゃんが、童謡や昔の歌謡曲を立派に演奏された。
明らかに認知に問題があるようだし、体もかなりヨボヨボとした感じなのに、指はちゃんと音楽を覚えているんだなー。
テーブルのお向かいに座ったおばあちゃんも認知症で、同じことを何度も何度もわたしに話しかけられた。
口がもごもごとしてちゃんと聞き取れないのだけど、ところどころに「世界平和だけを」という言葉が出てくるのだ。
そのおばあちゃんは出されたお粥だけ食べて、あとのおかずはお弁当のように容器の隅に綺麗に詰めて手を付けようとされない。
チーフの松岡さんが来て「もう仏さんはお腹いっぱい食べたから、これは勝子さんに食べて欲しいって。」と話しかけて、残したおかずを食べさせようとする。
このおばあちゃんは若い時に出家されている尼さんだそうで、今でもご馳走は「仏様に」と言って自分は食べようとされないのだそうだ。
きのうから「信仰」のことをずっと考えていたのでぐっと胸が詰まった。
他の誰かのために、信念のために、自我を捨てた姿はやはり尊いと思う。
でもそれでも、神は決して犠牲を求めない。
もちろんこのおばあちゃんは犠牲的になっているわけでなくて、純粋にご馳走は仏様にあげたいという気持ちからそうしているのだろう。
でも神は自分の愛する人が喜んで恵みを受け取ることを何より喜ぶんじゃないのかな。
親が子供に対してそう思うみたいに。
だから仏さまだって、このおばあちゃんにご馳走を喜んで食べて欲しいと思う。



さっきフェイスブックでシェアされていた「小さなお葬式」というリンク。
わたしのお葬式も最小限のコンパクトなものでいいと思ったので、これは生きてるうちに娘に伝えようとリンクをLINEしたところ、かなりあっさりとした返事が返って来た。












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