掴もうとする心

Posted by michikosayura on   0 comments

婿さんが連休中に東京出張で、台風18号の心配もあったので、土曜日から今日まで長女と孫が泊まりに来ていた。
加えて(台風が来るにも関わらず!)高校一年生の甥っ子が友達3人と泊まりに来ていたので、この連休は普段より人口密度の高い我が家だった。
布団や食事の用意やらで母もわたしも結構くたびれた。
それにしても熊本は台風の被害は逸れたので幸運だった。
先ほど空港まで娘と孫と一緒に婿さんを迎えに行き、娘たちも帰って行ったので、今は久しぶりに母と二人のひっそりとした我が家。
台風一過の晴天と爽やかな風が気持ちいい。




仮眠から目が覚めたらすごく心が静かになっていた。
心が何も求めて無いし、どこかへ向かおうともしていない。そんな感じ。
もう本当にこれだけでいいと思った。
では何故、日々の生活のすべてをこの状態で生きられないのか。
その静かな心の状態で、自分の日常を振り返った時、逆にはっきりと、まだ何かを掴もうとしているかすかなエネルギーが見えた。
そして、掴む対象はきっと何でもいいのだ。ということも分かった。
それは単に「何も掴まないでいる」ことへの恐怖から逃げるために生じているエネルギーだから。
言うまでもなく、それがエゴの生存本能だ。
エゴは消滅の脅威に耐えられない。
何も掴まない、ということはエゴが消滅することだから。
それは(偽の)アイデンティティを存続させたいという欲求だ。
こうして日記を公開の形で書くことも、アイデンティティの存続が動機になっていることが分かる。
何も為さず、自らの存在理由も求めず、個としてのアイデンティティを本当に放棄することが、いかに難しいことか。
この静かな心の状態から、それが余計にはっきりとわかる。
でも心はこんなにもはっきりと知っている。
それを本当に放棄した時にのみ、真の安らぎがあるということを。
この「掴もう」とする動機をすべて手放したい。
掴もうとする動機を手放した時に、すべて空っぽにした先に、わたしは「何をする」だろう。
エゴの動機をすべて燃やして灰になった焦土から、また新たな動機が生じるのなら、それは純粋な愛から生まれるのだろうと思う。








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