それは勝手に現れる

Posted by michikosayura on   0 comments

個人が目覚めることは無いということ。
もし目覚めの体験を一瞬でもしたのなら、それは「私」が目覚めたのでは無いということ。
個人はそもそも存在すらしていないのだから。
非存在が目覚めるということは起こるはずもないのだ。

コースはとても特殊な学びの方法だと思うけど、これ以上に効果的で時間を短縮できる学びは無いと、最近ますます実感している。
最近アジャシャンティの本を読んでいて思ったことだけど、アジャシャンティは元々がアスリートだっただけあって、個人の奮闘努力に価値を置いていることは否めない気がする。
それは決して間違ってないし、自分にも似たところがあるから共感すらする。
でも、エゴをよく理解していない人、エゴにやや無自覚な人がこの方法で学びを進めようとすると、それこそエゴの罠にはまる可能性があると思う。
「自分が」どうにかしよう、という意識から離れることがないから。
こういう人がある種の目覚めを経験すると、その目覚めの瞬間は純粋なものだったとしても、その後にエゴが狡猾に忍び寄り、この経験すらもエゴの餌にしてしまうことがあると思う。
世の宗教家とかスピリチュアルティーチャーにはこういう人が少なくない気がする。
幸いにもアジャシャンティは、おそらく過去生でここの所で幾度となく痛い目に合って来たのかもしれないけど、エゴに対してとても慎重だし、そこのクリーニングに実にストイックに取り組んだ経緯は驚愕に値するほど。
ここは本当に超えるのが難しい山、または非常に危なっかしい綱渡りのようなものだと思う。
イエスはそのリスクをよーーーく解っていた。
だから「こちらの方法」を断固として勧めなかったのだ。
奇跡のコースは、まず、わたし「個人」がどれだけ無能で、盲目で、何一つ正しく見ることができないかを「叩き込む」
エゴには(「個人」には)、何一つ成し遂げることはできないことを、これでもかと言うほどに強調するのだ。
不思議なことに、このエゴの解体が徐々に進むと、目覚めが何か、真理が何か、真に存在するものが何か、を知らなくても、それが勝手に前面に出てくる感覚があること。
そう、それは、勝手に現れるのだ。
真理は常に「在る」。
真理だけが常に在る。
ただ、個人という幻想がそれを見えなくしていただけだから、個人という幻想を解体すれば、それは勝手に出てくるのだ。
この間の自分がマッチ棒になる感覚は、それをすごく分かりやすく体感した。
イエスは「真理の追究」を勧めなかった。
それは、エゴを解体しさえすれば勝手に現れるから、どうすればエゴを解体できるか、そのことだけを教えた。
そしてエゴの解体は「個人」には無理だということも同時に教えた。
聖霊と共にでなければ、それは決して成し遂げられないのだ。
叔父が、インドのお師匠から「ギャーナヨーガ」という真理探究を禁じられ、「バクティヨーガ」という信仰の道を歩めと言われていたのはこの理由からだ。
もし叔父が信仰を持たずに哲学的な真理探究の道を進めば、エゴに足元をすくわれることをグルは見通していたから。と叔父は言っていた。(あー、叔父ならやりかねないなと正直思います)

毎朝、毎朝、起き上がる前に聖霊に祈る。
「わたしの細胞の一つ一つに入って来てください。私はもう私の人生を生きたくはありません。代わりにあなたが私を生きてください。」と。
きのうくらいから、また知覚が変わった。
この祈りの時に、どうしても微かな違和感、しっくり来ない感じがあって、それがすごく不快だったのだけど、きのうこの祈りを捧げた時に、びーーーーーったりと自分の中に何か充ち満ちて来るものがあって、それは言葉に表せない満足感を感じるものだった。
感覚的なことを言えば、それは軽く明るい光、とかでなくて、もっとしっかりと重量感をもった、マットなピンク色のエネルギーだった。
でも全然重くない。すごく落ち着いて満ち足りた安心感があった。
これも初めて味わう感覚だなー。
いろいろあるね。それが何だか追求や分析はしないけど。







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