目覚めるのは「誰」?

Posted by michikosayura on   0 comments

朝から妹の畑の草取り。
朝は随分と涼しくなった。
この調子なら昼間も続けて作業できそうだと思ったけど、やはりお日様が真上から照り付けると「やっぱ無理~」となる。
日差しはまだまだ強烈だから、無理しないでお昼過ぎには作業を終わりにした。
今日の畑は蟻と蚊の襲来がすごかった。おかげで今もあちこちが痒かったり痛かったり。

先週金曜日に叔母の施設に行ったら、いつもは水曜日に訪問してくれるはずのぶんちゃんとたまたま一緒になった。
ぶんちゃんは叔父から頼まれて毎週水曜日に叔母のリハビリを兼ねたマッサージをしてくれている。
いつも思うけど、ぶんちゃんくらい心がきれいな人はいないと思う。
すっごくカルマの薄い人なんだろうことが分かる。
ぶんちゃん、今までどんな転生をして来たんだろう!?
車椅子に座っているとずっと丸まったままの叔母の体。
ベッドでマッサージを受けている叔母の笑顔は最高だった。ぶんちゃんの笑顔も。




土曜日のお氣もち食堂に植木から来てくださったTさんが「非二元のお話しができる機会を作って欲しい」とおっしゃった。
今はコースのシェアの会は続けているけど、なるほど、コースには興味が無いけど非二元のことは興味がある、学んでいるという人は当然いるだろうな。
コースは単なる非二元ではなくて「純粋非二元」と呼ばれる。
非二元の一枚上手をいく?非二元論なのだけど、やはり信仰が全くない人には抵抗があるだろうことは予想がつく。
非二元のお話し会、とても面白そうなので来月からはじめてみようかと考えています。

コース、4巡目にして「ほほー、こんなことが書いてあったのか」という箇所があった。
これは今の自分の状態への助言のように感じた。
コースは何度読んでも、その時の自分の学びのレベルによって新たな気づきがあるのがすごいと思う。

「この二つのレベルの知覚(肉体の知覚と霊としての知覚)が交互に重視されるとき、それは通常、葛藤として経験され、しかもきわめて熾烈な葛藤となり得る。
しかしそれが行き着く結果は、神と同じく確実である。」
「そして、心は、遅延(肉体の知覚を選択すること)は不必要な苦痛を増すだけだと理解し、次第に遅延を許容できなくなる。
その結果、以前なら些細な不快感の侵入と見なしたはずの事柄に対しても、心はますます敏感になる。」
(第2章 分離と贖罪 「神の祭壇」)

Tさんもこの「葛藤」に葛藤しておられて(笑)、そのことを土曜にお話しに来られたのだ。
わたしも今同じところに居るのでTさんの葛藤はよく分かる。
この葛藤に関して、アジャシャンティの本を読んでいて「おおー」と目が開かれたような気づきがあった。

「私が思うに、あらゆる人が自分自身の中で確認すべきことは、目覚めたのは『自分』ではないということです。
目覚めることが『自分』から目覚めたのです。
あるいは、私がときに好んで言うように、悟っているのは悟りなのです。
悟っているのは『人』ではありません。悟っているのは『悟り』です。」

そうそう。つい忘れちゃうけど本当にその通りなのだ。
目覚めの経験の後の葛藤の多くは、「私が目覚めた」というすごく根源的な錯覚をしていることから来るんだなー。
目覚めたのは、目覚めだ。
それは「人」の中に平等に捲かれた種のようだと思う。
人の中でそれはいつか芽を出す。
そして目覚め、という生命はいつしか「人」を凌駕して大きく育つのだ。
そのタイミング、育つ早さ、その成長の経緯は決して「人」のコントロールの預かり知れないところなのだと思う。
あらゆる種子におのおのの芽吹きのタイミングと育ちの経緯があるように、それはその種子に予めプログラムされているのかもしれないと思う。






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