私を赦すのは誰か

Posted by michikosayura on   0 comments

孫を保育園に迎えに行ってそのまま水遊びしようと江津湖に連れて行ったら、ちょうど仕事が休すみの婿さんと娘も来て、4人でしばし水辺で夕涼み。
先日の台風以来、風が少し爽やかになったと思う。
水に足を浸けていると汗も出ないで快適。
あの台風前の、頭がどうにかなりそうな暑さは過ぎ去ったようでよかったよかった。






今日はまたもTKUからテレビ取材の依頼が。
そして以前掲載してくださった熊日あれんじからも取材依頼が来た。
数週間前にはRKKラジオの中継の話も来たのだった・・・
わたしが露出大好きな人間ならさぞかしいい宣伝になるのに、我ながらもったいない!!
(よりによって売り上げが落ちているこの時期なのに)
誰か影武者で出てください(涙)

しかしながら、そんなこんなで。
こんな自分も、もう何もかもひっくるめて「そのままでいいやー」と思う。
今日また列車の線路のスイッチが切り替わったみたいな瞬間があった。
もー、ぜんぶゆるす。
浅川路子さん、あなたを全部ゆるします。
何かがやっと私の事を全面解放してくれたみたいだ(笑)
本質の意識(アートマン)はそもそも赦しという概念すら持っていない。
なぜなら判断という機能が無いから。
あらゆる判断、条件付け、概念付け、裁きというものを知らないし理解すらしないのだ。
だから浅川路子さんを「赦した」のはエゴに違いない。
この「私を赦した私」を感じた時、エゴ自身も何重かの入れ子構造になっているんだなと思った。
まー、何重になっててもエゴはエゴで実在はしないけど。
浅川路子さんという、今回の人生でのアイデンティティは、それ自体変更不可能な、不可避的に起こった事だ。
アイデンティティに罪があるはずがない。
でもその持って生まれたアイデンティティに、あれこれ不平不満や、裁き、後悔、罪悪感、もっとこうなりたい、もっとこうならなければという感情、も持つエゴがずっといた。
「四つの約束」のドン・ミゲル・ルイスが「裁判官」と呼んでいたエゴだ。
人生に苦しみや葛藤を生み出していたのは、アイデンティティそのものではない。
それを生み出していたのは、アイデンティティを厳しく監視し、裁く「裁判官」というエゴだ。
一日に何度も本質の意識を思い出すようになってから、この裁判官が何だか心を入れ替えてくれたみたいだ。
裁判官のマインドにも、本質の意識がじわじわと浸透していったのかな?
この厳しい裁判官の目にも、浅川路子さんという分離の中でしか生きられない存在が、これまでの人生をこれ以上無いほど精一杯に努力して生きて来たことが見えたみたいだ。
この分離の幻想の中で生きることの大変さ、答えの見えなさ、努力しても努力しても決して辿り着くことの無いゴール、そういう一切を裁判官が不思議と理解してくれたみたいなのだ。





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