ハナププ式珈琲セレモニー

Posted by michikosayura on   0 comments

先週土曜日、全国をハナププ式珈琲セレモニーなる儀式?を広めるべく、全国を放浪しているサーファーのタカさんがさゆらに来店。
お氣もち食堂を終えた15時から、珈琲セレモニーを開催した。
参加費は寄付制。
たまたま日本に帰国していたという、バリ島在住のダンサーのさこさんも一緒に。
さこさんもとても軽くしなやかでハートフルで素敵な女性だった。

みんな円座を組み、はじめに生のカカオ豆をみんな一粒ずつ食べた。
カカオ豆とはなんと不思議な豆なのだろう!
甘み、酸味、苦み、いろんな味がどれも(かなり)強く主張しながら渾然一体となっていた。(けっして美味しくは無い)
タカさんが世界中から集めて来た倍音楽器が円座の中にたくさん並べられた。
タカさんが、スマトラ島で栽培されたハナププ珈琲を特殊な土器で焙煎する間、参加者たちは思い思いに好きな楽器を奏でるのだ。
立ち上る珈琲の香り、参加者の即興セッション、生まれては消え、変化していくリズムとハーモニー、わたしはちょっとしたトランスになってたと思う(笑)
これこれ、この感じ。これって本当は日常の中にあるべきものなんだよなーと思った。
大昔から、人はこういうひと時の中で、思考から自由になりハートで他者とつながりあって来たのだ。
この人間にとって必要な自然な状態が、今の時代には無くなってしまった。
祭り、儀式、思考を落としハートを開くこと、つながること。
それが無くなってしまった現代で、人は孤独に「癒し」や「悟り」を追い求めるようになってしまった。
昔の人は悟ってた。日常の中で。
だってそれが本来の自然な状態なのだから。
かなり以前から、ただ焚火を囲んでみんなで火を見る会、というのをやりたかった。
今年の寒い時期にやってみたいな。
楽器も鳴らせるところなら尚いい。
こうしてオープンハートな儀式とともに淹れられたコーヒーを、こんどは一口ずつみんなで回し飲み。
一口、二口、飲むたびに微妙に味が変わって、なんだかコーヒーの既成概念が飛んで行ってしまった。
単純に美味しいと一言で表現できない複雑な味わいだった。
豆。そうだよね、珈琲って豆だよね。
参加者が帰ってからも長いことタカさんと店で話していた。
以前はスマトラで雑貨屋もやっていてそこそこ儲かっていたらしいけど、今は一台のワゴン車を最小限の生活必需品だけを持って、定職に就くことも定住することもせずに全国を自由きままに旅する毎日。
「神さま頼みですから」と何度も言っていた。
すごく憧れるけど、これは自分と世界への心からの信頼が無ければできないと思う。
タカさんには恐れが無いんだな。














きのうは一日中お墓参りツアー。
九年前に亡くなった友人のまうじのお墓参りに由美ちゃん、由美子さんと行った。
久しぶりのまうママとまうパパ。相変わらずのラブラブぶりにすっかり癒された。
毎年開催されている追悼野球大会の記事を新聞で読んだ見ず知らずの男性が、まうじの曲を作って熊本のイベントで歌っているという。
聞かせてもらったらとてもいい曲、いい声で、涙が出て来た。
生前に角川で同勤だった作家の藤野千夜さんの最新の小説には「まうじ子」という名前でまうじが登場している。
天国に行ったあとも不思議な影響力を持つとても不思議な友達。
八代のまうじの実家を後にして、その後舅、姑のお墓に参り、午後は母親と妹一緒に正木家と母方の西中家のお墓と、計四か所のお墓にお参りした。
西中のお墓に参っているとまたバッタが飛んできた。
数年前と一緒だ。
そしてこれもあの時と同じように、指を差し出すと逃げずに細い前足でタッチしてしばらくじっとしていた。








今日は朝七時に家を出て妹の畑の草取りに。
帰宅して午後から見た「グランドフィナーレ」というイタリアの映画が近年まれに見る傑作!
家庭のDVDで見ていてエンドロールで動けないくらい感動した映画は久しぶり。
特に映像美と、音楽がどれも素晴らしかった。
ものすごく音楽好きな監督であろうことが分かる。
人は誰も自分のアイデンティティを演じているんだな。
それを演じざるを得ない人間の哀しさ、おかしさ。
この監督もまた、どこか俯瞰した視点から人生を見つめていた。
でも「演じている」という自覚が根本から起こるなら、その人はもうアイデンティティに縛られてはいない。
アイデンティティとは着脱可能なものだと思う。





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