複数のものがあるように見えるけれど

Posted by michikosayura on   0 comments

今日は米村夫妻のお誘いで国際交流会館で開催された挙動気功(キョンドン気功)なるものの体験会に出かけた。
さゆらのお客さんも数人いらしていた。
挙動気功の第一人者である韓国の金導師の演技が披露されて、その後体験会が開かれた。
今年70歳になるという金先生、機敏で迫力ある動きはさすがでした。
気功体操もシンプルな動きなのに、一連の動きを通すと結構な運動量だった。
リセットはいまだに毎日続けてるけど、それプラスの気功もやってみようかなー。
自分の意識の変化が加速度的に起こったのは、やはりリセットの効果も大きいのじゃないかと思う。

本質の意識には分離は無いのに、どうして知覚するものすべて、分離しているように見える(感じる)んだろう?
こことあそこ、あなたと私、これとあれ、みたいに。
と最近そこをぼんやりと考えていた。
なぜかというと、分離の感覚がなんとも心地悪いからだ。
それが錯覚だと分かっているから、心地悪く感じるようになったのかもしれない。
それで自分の知覚をじーっくり見てみたら、はっと気づいたことがあった。
知覚(気づき)はまったく分離していない!ということ。
気づきは分離のしようが無いのだ。
気づきは分離を知らないし経験もできない。
気づき自体が分離の無い状態なのだ。
でも気づきの中に(というのも語弊があるけど)現れる思考や概念付けのマインドの働きで、気づきの対象(というのも本当は存在していない)が複数のものに分離して見えるのだ。
例えば、今わたしの前にノーパソがあり、その奥にはマグカップがある、視界の左隅には扇風機が回っていて、時々部屋で飼っているインコが小さくさえずる声、階下で母が食器を洗っている音、キーボードを叩くカタカタという音がしている。
他にもたくさん、たくさんの「対象」が知覚されている。
でもそれは、すべてひっくるめて、「たったひとつの」知覚の中にしか現れていない。
それはすべて、気づきというひとつの体験そのものに他ならないのだ。
いつも、いつも、あるのは気づきだけだ。
気づきの意識無しに、これら対象の存在が確認されることは無いのだから。
また分かりやすく言うと、夢の中で様々な対象を知覚したとしても、それはあくまで夢でしかないということ。
そこに分離した複数の対象が実在しているわけではない。
脳の働き(というのも非二元的な論点で言うと実在しないのだけど)として考えると、もしこの時に夢を見る人の脳波を測定したら、夢の中で何かを知覚するたびに脳波に反応が出るのかもしれない。
でも現れているのはある個人の脳の反応という「ひとつの」現れだけであって、夢の中で知覚された複数の対象は実在しない。
そして「私」という個人の感覚、視覚が見ている、聴覚が聴いている、手に触覚を感じる、という体験も、すべてノーパソやマグカップや、鳥のさえずりや、階下の台所の物音などと「まったく同じ」、分離していない気づきの中の現れでしかない。
だから・・・「個人」という感覚すらも、知覚の中の現れでしか無いのだ。
個人は実在していない。
気づきはあらゆる分離を知らない。
だから、気づきが複数ある、というのも思考が生み出した錯覚なのだ。
私の気づき、あの人の気づき、あなたの気づき、という概念もまったくの錯覚でしかない。
個人はいないし、分離は存在しない。存在し得ない。
ルパート・スパイラはこの分離を知らない気づきの性質こそが「愛」だという。
本当にその通りだと思う。
個人が錯覚でしかないと気づきた時に、すべてがつながる。
この分離の無いつながりそのものを感じた時に、そこに自然に沸き起こるフィーリングは愛としか呼べないものだ。











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