怖い紙芝居

Posted by michikosayura on   0 comments

結局次女は今日の午前中に帰還しました。
実は夕べ日付が変わるころに一旦戻って来たらしいのだけど、鍵が閉まってたので(!)、長女の婿さんにSOSを発信して長女のアパートに泊めてもらったらしい。
「鍵は郵便受けに入れてあるよ」とLINEしてたのに、読んで無いから!もー!
いつものことだけど、プチ家出から帰って来たら、お互いに何事もなかったように普通に話します。

夕方、これから先の予定やら、タスクやらの事を考えてたら、すごく気が重くなって、たった今EFTをしたところ。
「恐怖」が描かれている紙芝居を持ってる子どもが出て来た。
その子は(私のインナーチャイルドなんだけど)、私に「ほら!」「ほら!」みたいに恐怖の紙芝居を見せたがっていた。
「どうしてそんな物を持ってるの?」と聞いたら「(私に)油断させないためだよ」と答えた。
「だって怖いことはたくさんあるんだよ。これまでもあったけど。」
その子は、今までの体験で味わった恐怖を、自分の胸の中に留めておけなくて、こうして誰かに見せていないと持ちこたえられないのだ、ということが伝わって来た。
とても可哀そうになって「そうか。怖かったね。怖かったね。」とタッピングしていたら、自分が、その子を慰めている自分と、「怖かったー!」と泣いている子どもとの両方ともになった。
(EFTやってると二つに視点になるのはよくあること)
何が怖かったかって。
やはり「神さまから離れてしまった」ということに尽きるのだった。
神様から離れて一人で怖かったのと、神様から勝手に離れて神様に怒られる、もう受け入れてもらえないという罪悪感の両方があった。
その怖さと罪悪感は、きっと今の次女が感じているのと一緒だという直感があった。
もしこのネガティブな感情を抱えているとしたら、ほんの少しの否定でもダメになってしまうだろうな、と感じた。
離れたことなど一度も無いからね。
もう怖い紙芝居は捨ててしまおうね。
心の中で自分にも次女にも語りかけた。

きのう書いたリーラ(ただの現れ、神の戯れ)とマーヤー(これが現実という幻想)の話。
リーラにマインドのフィルター(意味付け、価値判断)が絡むとマーヤーになるというような事を書いた。
こう書くとマインドというのが、なにやら特別な力を持つもののような気がしてくる。
でもこれが落とし穴で、この錯覚に陥ることでマインド自体に振り回されてしまう。
マインドも、実はリーラでしか無い。(と感じている。間違ってるかもしれないけど)
マインドや思考も、知覚できる対象でしか無い。
それは、窓から見える木や、隣の部屋で息子が立てている物音や、目の前のパソコン、私の手、そういった今知覚している事象と全く「同列」のものなのだ。
マインドや思考もただの現れでしか無い。
水が高いところから低いところに流れるように、マインドの自然な機能は知覚した対象に概念を付与することだ。
だからマインドや思考に抗う必要は無い。
ただ、それがただの現れだと知っていればいいのだ。
マインドに抗うマインドが現れると、心に感じる葛藤はより激しくなる。
マインドや思考が現れでしか無い、ということは、いくらマインドで「考えて」も分からない。
これもまた、本質の意識にある時に明確になることだ。
本質の意識はマインド、思考、環境、物質、ストーリーなどを同列のものとして捉えている。
それはゲームのプレーヤーが、ゲームの中の登場人物にどのような心理的葛藤が起ころうと、どのようなストーリーが展開されようと、「ゲーム」という捉え方しかしないのと似ている。
一方、本質の意識は、それ自体を決して客観的に捉えることができない。
これはもう実感するしか無いことで、いくら本を読んでも理解できない部分かもしれないと思う。
本質の意識には、客観性が入る隙間が無い。
それはこれ以上なく「それそのものによって」充溢している感覚だ。
それそのもの。そうとしか言いようが無い。
だから、本質の意識にある時にはこれ以上ない程に「私が私である」という満たされた感覚がある。








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