19年の努力の結果は?

Posted by michikosayura on   0 comments

きのうはカフェに韓国から観光に来たカップルがいらした。
お互いに低レベルの英語しか話せず、なんでわざわざ健軍に来たのかよく掴めなかったけど(ウォーキングって言ってたから散策ということなのかな?)、よりによって最高に暑い時期に来ましたねーと笑った。
それから韓国のお客さんが帰ったあとは、もう7、8年前に私が作っていたミニコミ誌を大事に取っていて、いつか行ってみようと思っていました、というお客さんが来られた。
今日が営業日かどうかも分からず、冊子に書いてあった住所だけを頼りに来られたのだ。
最近、こういう感じのお客さんが多いな。

今日は次女の19歳の誕生日。
夕べは久しぶりの大喧嘩の末、次女が家を出て行った。
精一杯やってるつもりだけど、私はどうしても娘の期待するような母親にはなれない。
努力して来たつもりだけど、もう降参。お手上げ。
そう思った時に、いい母親でいようとギュッと握りしめていたものがポロンと落ちてなんだかスッキリした。
まだ帰ってきてないけど、今夜は帰ってくるんだろうか。
リクエストの31アイスクリームのアイスクリームケーキは買ってあるんだけど。
不思議と、帰って来ても帰って来なくても、なんだかどっちでもいい感じなのだ。
これって子離れしたって事かな。

本質の意識に、一日のうちに何度も何度も戻るようにしている。
そうすると解ってきたことがたくさんあった。
でもどれも言葉にしようとすると、手に握った砂が、指の間からからサラサラと落ちる感じで、長い間意識に留まっていない感じ。

現象が起きる、ということがどういう事なのかが感覚的に分かるようになった。
不思議なことに、こうして実際の経験(気づき)として分かった事を言葉にすると、インド哲学(アドヴァイタ)の概念に一番近い気がする。
現象には二つの段階(レベル)があると思う。
ひとつは、単なる現れというか、ふと風が起こるような、風に木の葉が揺れるような、そこに何の意味付けも評価も存在しないレベルの現象。
これがどこから生じるのかは、多分本質の意識から見ることをしても分からないのではないかと思う。
それが生じた時には知覚が同時に生じている。
だから、知覚が現象を生み出しているような感覚すらある。
ルパート・スパイラは知覚(気づき)とは物事そのものであると書いている。
それが生まれる瞬間、それ以前(知覚以前)に現象がどこにあったのか。
一体何からそれが生まれたのかと考えると、それはもう「空」とかブラフマンとしか言いようが無い気がする。
このレベルの現象はアドヴァイタではリーラと呼ばれる。(と思う)
確か20代の時に読んだスワミ・ヴィヴェーカーナンダの本には「神のスポーツ」という表現があったように思う。
リーラは神、ブラフマン、空、のそれ自体の揺らぎ、運動、それの現れのような気がする。
次に、そのリーラに心(マインド)が反応する。
するととたんに単なる現れであるリーラに、意味や価値判断が絡んでくる。
そうした時に、リーラはより現実性を帯びて、重さや密度を増して来る。
この状態がマーヤーと呼ばれるものだと思う。
人は現象をリーラとして見ている時には、そこに巻き込まれることは無い。
そこにマインドを投影した時に、現象への感情的な反応が起こって来る。
マーヤーとは人が現象に巻き込まれている状態そのものだ。
このマインドの投影が起こる瞬間というのがよく分かるようになった。
そして、それを止めることもできるようになってきた。
いつも上手く行く訳では無いけど。
投影を止める時は「止めよう」と意識でストップをかけるよりも、本質の意識を「思い出す」方がスムーズに行く。
本質の意識、それ自体に思考と価値判断という機能が無いから。

奇跡講座ではもっと厳密に、知覚で捉えられる現象はエゴが生み出したと説かれている。
リーラが知覚されるものだとすると、これはどういう解釈になるんだろう、とそこらへんの事が今はよく分かってません。
今日書いた事も、現時点での自分の気づきからだけ書いているので、専門家(?)の人が読むと間違ってるところがあるかもしれません。
きっとあるでしょう。
でもすべては外側からの知識得ても何の意味も無いので、自分に見えることだけを忠実に追っていこうと思っています。









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