体験そのものが愛であること

Posted by michikosayura on   0 comments

先週火曜日は数秘学カウンセラー仲間の桑原さんと新婦・京子さんの結婚式に参列。
桑原さんとは出会って10年近いかな?
天草・樋島のきれいな砂浜が目の前のお宅にも遊びに行ったことがある。
去年の秋に京子さんとさゆらに来てくれて京子さんを紹介してくれた。
その時は結婚の話はまだなかったはず。
10年前に奥様を癌で亡くされて、男手で3人のお子さんを立派に育て桑原さん。
京子さんと出会ったのは神様からのご褒美だなと思う。
わたしもとーっても幸せな気持ちになる結婚式だった。





翌日は朝3時に起床して、4時に大分の臼杵に向けて車で出発。
国宝石仏の蓮畑で、朝7時から始まる米村ふみこさん、健さんご夫妻のライアーのコンサートを聴きに行った。
どうしてこんなに早くからあるのかというと、蓮の花は早朝に満開になって、日が昇ると花が閉じてしまうから。
6時半に到着して地元のパン屋さんが販売していたモーニングセットを並んでゲット。
コーヒーを片手に満開の蓮畑でライアーとシンギングリンの響きに静かに耳を傾けた。
はー、天国は今ここに♡









それからしばらく日陰に車を停めて仮眠をとり、お昼に、予約していたこの時期限定の蓮料理をいただいた。
このお料理は毎年蓮の開花時期に合わせて石仏観光センター二階の郷膳・うさみで提供されている。
蓮の花、葉、茎、実、根、すべてを使った目にも舌にも最高のお料理。
食べきれないほどたくさんの品数で、これで3500円(税抜き)はかなり良心的。
蓮の茎をストローにジュースを飲んだのはじめて。

大分から熊本に帰ったその足で、夜はよか隊ネットのセミナーに。
9月の中間活動報告会でのプレゼンの組み立て方のワークショップに参加。
この報告会、助成金をいただいた団体は発表が義務付けられているのです。
楽しかったけど、かなり強行軍の週末だった。










連休中は晴天でかなり気温も上がり、夏空がとてもきれいだった。
大分からの帰路、阿蘇大橋崩落後のう回路の入り口である赤水付近はいつもの渋滞。
右手に外輪山の山並みを見ていたら、急に込みあげて来るものがあり、思わずハンドル握ったまま泣いていた。
山並みがあまりに美しかったから。
雄大でありながらなだらかなフォルム、複雑な緑の陰影、その美しさが、全身全霊に沁み込んでくるみたいだった。
その時、私と山には分離が無くて、その分離の無い親密さにただ泣けた。
これは、、、もう愛としか呼べない感覚なのかもしれないと思った。
すべては心の投影だと理解した時、逆説的に目に映るものに神秘と奇跡を感じる。
すべてが投影という理解は、虚無感とは真逆の感覚を呼び覚ます。
何故こんなにも、想像を超えて美しいものを見せてもらえてるんだろう!?
それを見ているのは、見せているのは、何か?
この美を生み出したのは何か?

ルパート・スパイラの「プレゼンス 第2巻」を読んでいて、思わず涙したくだりがある。

「現実は、それ自身の顔を見つめています。
それは、こずえに揺れ、鳥の中で歌い、空の中で輝き、思考の中でさざめき、往来をごうごうと走り抜け、子どもの中で泣いています。
あらゆる体験の、あらゆる細部で、現実はそれ自身に呼びかけています。
『愛するものよ、愛するものよ、愛するものよ!』と。」

体験そのものが神秘であり愛である。
体験と気づきは一体のもの。そしてそのことこそが愛の本質。
またルパート・スパイラは「木を見る」という体験に関してこう書いている。

「見ている気づきと、見られているものの現実は、ふたつの別のものではありません。それらはひとつで同じです。
ですから『私は木をしている』と言うべきでしょう。
つまり、『気づきである「私」が木をしている』のです。
『私』が私であることと、『木』が木であることが、お互いの存在を分かちあっているのです。
自己であることとは、物事であることです。」








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