夏至のデトックス

Posted by michikosayura on   0 comments

今夜はよか隊ネットの「つながるカフェ(みなし仮設カフェ)」のミーティングへ。
さゆらは今すぐにでもつながるカフェを始動できる状態にあるけど、他の拠点はなかなかそうも行かない感じ。
正直なところ、ほぼ完全に無償ボランティアの活動になるし、結構大変そうだけど、またさゆらに新しい人たちとのご縁がいただけると思うとワクワクするので引き受けたのだ。

今朝、目が覚めたら左目がとても痒くて、鏡を見たら真っ赤に充血していた。
でも5分足らずの間レイキをしていたら、レイキをした5分後には痒みも充血も引いていた。
それからなんだか体が濡れ雑巾のように重く・・・
そう、淀んだ重たい水を体に蓄えているような・・・
その感覚にフォーカスして瞑想した。
それはやはり分離感としか言いようのない感覚で、ここ数日はこの分離感が否応なしに、容赦なく、自覚されて苦しい。
夏至を迎えたと何か関係があるのかな。
これまで目先の忙しさや、日常の中でのちょっとした達成感や充実感でごまかして来たものが、ついにごまかし切れなくなった感じだ。
4年ほど前に「すべて幻想だった」と少しずつ腑に落ちはじめた頃に味わった、どうしようもない虚無感にも似てるけど、これは更に存在の核心のところで感じている感覚のような気がする。
分離感はつらいよ。山田洋次監督が映画作らないかな。
これまではこういう根源的な分離感に陥った時は、「分離は一度も起こったことの無い幻想」と自分に言い聞かせるのが常だったけど、今回はあえて逃げ道を作らないでいる。
例え頭での理解があっても、分離感自体が癒されていない事実をしっかりと直視してみたいから。
アジャシャンティが「悟りに逃げない」と書いていたけど、自分の感情をそのまま素直に認めることはとても大切だと思う。
そして、ゆうべ奇跡講座を読んでいて、またはっと目を開かれて気がした。
それは分離感は「特別性」に他ならないということ。
特別性に関しては数限りなくコースに書かれているのに、自分の中の「特別性」をこんな風に客観的に理解したのは今回がはじめてだった。
わたしは自分の「特別性」にしがみついていたのだ。
自我の魅力、罪悪の魅力、とは特別性への執着に他ならない。
この「特別性」という概念はコースを熟読しないと分かりにくい概念だと思う。

「特別性の背信 (コース 24章 特別性のゴール Ⅱ)

比較とは自我による仕組みに違いない。愛はいかなる比較もしないからである。
特別性は常に比較する。それは他者の中に見られる欠乏によって確立され、知覚可能なあらゆる欠乏を捜し出して、それをはっきりと見えるところに保持することで維持される。
(中略)
しかし、特別性の追求は、あなたに苦痛をもたらさずにはいない。
そこにあるのは、救済を挫折させるゴールであり、したがって、神の意志に対抗しようとするものである。
特別性に価値を置くことは、あなた自身についての幻想のほうを真理よりも大切にする異質な意志を尊重することである。
(中略)
あなたは特別ではない。もしそうであると考え、自分の真の本性について真理に対抗して自分の特別性を防衛しようとするなら、どうしてあなたに真理を知ることができるだろう。
(中略)
神がご自身と同質であるのと同様に、あなたは神と同質である。
神は特別ではない。なぜなら、神はご自身の本質の一部でさえ、神の子に与えずにご自身だけのためにとっておこうとはしないからである。」

自我の価値観にとって「特別性」とはある種の強さであり、優位であることだと認識されるけれど、真理においては特別性とは幻想でしかない。
特別性とは砂上の楼閣なのだ。
誇らし気にそびえるように見えるけれど、それは自らが無であると知っているので、いつもそれが崩れ去るのを恐れている。
真理においては特別性とは弱さでしかない。
特別性とは「自分は神とは関係なく、独自の成り立ちで存在している」という傲慢な思い込みで、それは優性への妄想のみならず「わたしは特別に劣っている」とか「わたしは特別に病弱である」とか「わたしは特別に不幸だ」という自己卑下もまだ「特別性」への執着なのだ。
本当の強さとはわたしは神の被造物に他ならないと認めること。
神は誰一人として「特別な者」として作らなかった。
なぜなら神はすべての被造物を神と同じものとして作られたから。
自分が神と同質のものだと認めることは、実は謙虚さそのものなのだ。
この謙虚さは、自我には決して無いものだ。






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