木の花の香る季節

Posted by michikosayura on   0 comments

きのうはカワバタマイさんが発起人となって企画開催された「旅する熊本写真展」を見に鶴屋に出かけた。
熊本在住のカメラマンたちがそれぞれの熊本への思いを表現した写真展。
先日、マイさんがちょうど前震から一年の日にお店に来てくれた際に、ちょうどお店に居合わせたチームおひさまメンバーとわたし個人の写真を撮ってくれた。
てっきりチームの写真が展示されるものと思ったら、なんとわたし個人の写真が展示されていて、びっくりするやらこっ恥ずかしいやら(汗)





今日は一応カフェの日でお店を開けたけど・・・お客さんゼロだったー!
嘆かわしや(泣) ・・・でもなんかそんな気はしてたけど。
それで早めにお店を閉めて御船の温泉に出かけた。
多分明日から日曜日まではどこも多いだろうから、出かけるなら今日のうちだと思った。
新緑の木々に囲まれた山の上の露天風呂は最高!数十分間は緑を眺めてぼーっとしていたと思う。
この時期ならではの楠や栗の木の「木の花」の香りがあたり一面に香っている。
子どもの時はなんだか苦手な香りだったけど、今は大好きな香り。

きのう読んだ奇跡講座。まとめ。
(自分のブログは自分の整理のために書いているので、読んでいる人にはちんぷんかんぷんかもしれません。しかも長いし!すみません)
ここも3回目にしてやっとちゃんと理解できた感がある。
ダイレクトパスを実践したからこそ実感として分かるようになった部分もあった。

第18章の「私は何もする必要もない」という1節。
「あなたがまだ一度もしたことがないことが一つある。
あなたは完全に肉体を忘れたことがない。
時にそれがあなたの視界から薄れたことはあるかもしれないが、完全に消えたことはなかった。
あなたに求められるのはほんの一瞬だけこれが起こるに任せることでしかないが、贖罪の奇跡はこの一瞬の中で起こる。」

「どの一瞬においても、肉体はまったく存在しない。それは常に思い出されたり、予期されたりするが、決して、『今』、体験されることはない。」
・・・この部分。ダイレクトパスの実験をやってみると、コツを掴めば誰にでも実際に体験できることだ。
これは観念ではなくて、事実だから。
肉体は「時間の中」では存在しているように見える。過去や未来のある時間の中では。
でも、本当に意識が「今」にある時、肉体は消えるのだ。
「今」にあるのは「気づき」だけだということがわかる。
それは悟りとか高い意識状態でなくても、注意深く「今」にいることで実感できる。

「ほんの一瞬でも、過去も未来も見ないでいようという気持ちにならない限り、聖なる瞬間を無条件に受け入れるのは不可能である。あなたがそのために準備をするなら、それを未来のものとしてしまう。
解放は、あなたが解放を欲する瞬間にあなたに与えられる。」
「あなたは自分が受け入れたゴールに向かって、非常に長い道のりを進んでいこうとしているのかもしれない。
罪と戦うことによって贖罪に達することは極めて困難である。
憎まれ蔑まれているものを神聖にしようとする試みには、途方もなく大きな努力が費やされる。
また肉体からの離脱を目的とした一生かけての観想や長期にわたる瞑想も、必要ではない。
このような試みのすべては、その目的ゆえに、いつかは成果をもたらす。
だが、その手段は退屈で非常に時間のかかるものである。
それらすべてが、現在の無価値にして不十分な状態を未来に求めているからである。」
と、一般的に「解放」や「目覚め」のために努力されていることは、イエスいわく「退屈で非常に時間がかかる」のだそうなのだ(笑)
ほとんどの人が努力の方向性を間違えている。きっとそうなのかもしれないと思う。
自分の中に他人の「罪」を見ながら「赦そう」と努力することも、「極めて困難」で「途方もなく大きな努力が費やされる」ことなのだ。
自分を磔にした人々を赦したイエスが「困難」だと言うくらいだから、それは本当に困難極まりないのだと思う(苦笑)

ではどのような道が「容易」なのか、と言えば、次にこんな文章が来る。
「あなたの道はそれらとは違う。目的においては同じでも、手段においては違っている。
神聖な関係は、時間を省く一つの手段である。
兄弟を共に過ごす一瞬が、あなた方両方に全宇宙を取り戻させる。
あなたの準備は整っている。
今あなたに必要なことは、自分は何もする必要がないと思い出すことだけである。」
「あなたのために時間は省かれている。なぜなら、あなたと兄弟が共にいるからである。
これが、あなたに時間を省かせるためにコースが用いる特別な手段である。」
解放や目覚めを未来に求めるのは言うまでも無く自我の活動だ。
その自我の活動を放棄すること。
常に自分しか見ていない自我の視点を放棄して、今現在、自分に与えられた環境と兄弟(あらゆる他人)との関係に心を開くこと。
その中で解放と目覚めはきっと自然に、何の力みもなく、与えられるのだと思う。
(ここは自分の勝手な解釈。かもしれない・・・)
兄弟があなたを救済する。と奇跡講座には数かぞえきれない程書かれている。
兄弟の救済を受け入れる時、自我は消える。
大和田菜穂さんも「一人で」「個人が」解放されることは無いと言うように、解放や目覚めは完全に非個人的で包括的なことなのだ。
兄弟無しでは。兄弟と共にでなければ、天国の門はくぐれない。
そのことを真摯に受け入れることは、自我の「努力」とは真逆のものだ。


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