最後の幻想

Posted by michikosayura on   0 comments

自分の整理のために覚書。

今日フェイスブックに奇跡講座の一文がシェアされていた。
これはマニュアル編の最後の「付録」である「精神療法」という一文で、その中の「最後の幻想」という言葉にひっかかった。
一度は読んでるけどその時はピンと来なかったんだな。

「しかし、ここに居る者は誰でも、まったく幻想をもたずに生きることはできない。なぜなら、彼はまだこれから、最後の幻想があらゆるところであらゆる者に受け入れられるように、尽力しなければならないからである。」

「最後の幻想」が指し示しているのは「完全なる赦し」のこと。
なぜ赦しが幻想と呼ばれるかというと、罪自体が存在したことの無い幻想だから。
「最後の幻想」が受け入れられた時、わたしたちは「幸せな夢」と呼ばれる実相世界で生きることになる。
なぜここで「夢」と言われるのかというと、そこにはまだ自意識、つまり「自」と「他」を見る二元性があるからだ。
でも「最後の幻想」がもたらされた後に見る二元性には、恐れや不安や孤独、欠乏感などのネガティブなものが無い。
愛の状態で二元性の中にいることができる。
その状態を経ると、次の段階、あらゆる二元性を見ない完全に「一つなるもの」に至る。
これは「最後の一歩」と呼ばれる。
最後の一歩は我々の仕事ではなく、神に属する仕事だと説かれている。
この意味が最近すごく腑に落ちた。
それは「私」が目覚めを求めている限り、それがもたらされることは無いから。
求める「私」が消えた時に、それはもたらされる。
最後の一歩はあなたがたの仕事では無い、と奇跡講座で説かれるのは、その状態を自我が求める行為自体が結果的にその妨げになるからだ。
最後の一歩の前の段階、幸せな夢に至るまでには個人の努力や意欲が功を奏する。
でも最後の一歩は、個人がすべて手放し、明け渡した瞬間に訪れるものなのだ。
それは決して意図的に起こすことはできないものだ。
これが分かった時に、人は探求を終える。
探求という行為自体が、決して求めている宝を見つけ出すことのできない行為だったと理解するから。
その時に、何かが「落ちる」。
そのあとにもたらされるものは、本当に神のみぞ知るのだと思う。
















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