甘美に光り輝くもの

Posted by michikosayura on   0 comments

グレッグ・グッドの「ダイレクトパス」を読了。
読み進めるうちに「これはあの時のあの感覚では?」と思い当たることが度々あった。
自分流の言葉にすれば「源泉を垣間見る」時に感じる感覚。
源泉と言ってもいいし、本質と言ってもいいし、セルフ、大我、アートマン、そしてグレッグ流に言うと「気づき」となる。
そういった体験に「一瞥体験」という名前がついているのを知ったのはずっと後だった。
一番最初の一瞥体験は今から13年程前。
離婚直後だったと思う。
夜に子供が寝ている隣で電気スタンドの灯りの下で「フィンドホーンの花」を読んでいた。
ふと、不思議な感慨に打たれて、本を置いてなぜか自分の手をじーっと見つめた。
その時に、自分の手に対して感じたことのないような感謝が沸き上がって、手をまじまじと見つめながら号泣した。
「手よ、ここに在ってくれてありがとう」と思った。
もっと言葉にすれば「存在させられている」ことへの感謝と奇跡を感じてハートがパンクしそうな感じだった。
次に印象に残っている体験は、「手への感謝」体験の数年後、お金にものすごく困っていた時のこと。
生活が回らない不安に文字通り押しつぶされそうになっていた。
ご飯を食べても味もよくわからない日が続いていた。
夕暮れ時に、夕日が差し込む部屋でいつものようにお金のことを考えていた。
まるで自分を追い込もうとするようにその不安がピークに達した時、頭?ハート?で何かがパーンとはじけた。
すると、「この現実はすべてハリボテだ!」という「確信」としか言いようのない感覚が押し寄せて来た。
すると、部屋中に光が溢れて見るものすべてがキラキラと輝いた。
思わずお腹の底から笑った。
それままるで、最悪の悪夢から目覚めて「あー!夢だった!」と心から安堵するのにソックリだった。
あの日以来、わたしは物事を本当の意味でシリアスに捉えることが無くなった。
悩んだり、焦ったりするけれど、その事象と自分の間にいつも余裕?隙間?ができるようになった。
その体験からまた1,2年後。
夜中に息子がスカイプで友達と話す声で目が覚めた。
それから何となくすぐに眠れず、かと言って眠れないのが不快な感じでもなく、とてもリラックスした感じで布団の中で目を開いていた。
すると突然、これまで経験したことの無い視点で自分を見ている自分が表れた。
うーん。ちょっと違うなー。言葉にできない不思議な感覚。
無理矢理に表現すると、この布団の中にいる自分とは別に自分が表れて、布団の中の自分をすごく客観的に見ている感じ。
その「見ている」自分はすごく大きくて、透明で、柔らかく、穏やかさそのものだった。
「受容」という言葉がすごくピッタリ来る。
その「見ている」自分はいくつもの人生を見て来た。何で分かるの?と言われると分かるから分かるとしか言いようがない。
「アメリカとフランスとインドを旅して来たよ」という人に「何で分かるの?」と聞かないのと一緒で、単に経験したこととして記憶にあるから分かるのだ。
女だったり、男だったり、貧乏だったり裕福だったり、アジアだったりヨーロッパだったり、無数の人生を「この目で」見て来た。
そんなとても大きな大きな視点だった。
そして、この時とても印象的だったのは、その目の「背後」に、さらに大いなる存在を感じたこと。
この視点はその大いなる存在に抱かれていた。
その時は感動して泣いたりはしなかったけど、とにかくもう充分すぎるくらいに満たされた感覚があった。
例えるなら、自分自身が、ゆうゆうと豊かに水を湛えた大海原になったような感覚だった。
でも海のような物質的な感覚が皆無で、透明で無限に膨らんでいる感じだった。
というような感覚をダイレクトパスを読んで一つ一つ思い出した。
グレッグ・グッドは「その感覚」を光り輝く甘美さと表現する。
とても分かる。
だから「あの感覚」を思い出す、または求めることは、「恋に似ている」
わたしが言葉にするなら、わたしは音楽が大好きだから、「これは一生で最高の音楽かも!?」と思えるような曲に出会った時、仕事をしていても、家事をしていても、その曲が聴きたくてたまらなくなる感じと似てる。
朝目が覚めたらすぐに聴きたくなる。
一日の終わりにもまた聴きたくなる。
その音楽が頭の中で鳴り響くだけで、うっとりとしていい気分になる。
そんな感じかなー。
だから、「あの感覚」は芸術表現にも直結しているものだと思うし、実際にグレッグ・グッドもルパート・スパイラもそう言及している。
「あれ」が創造の源泉なのだと思う。

スポンサーサイト

Post comment

管理者にだけ表示を許可する