灯台のともし火

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きのうは秋津中央公園仮設で和みのおひさまカフェを開催。
すごく寒い日だったけど、マッサージを楽しみにいつもの顔ぶれの住民の方々が集まってくださった。
啓子さんはペーパークイリングでバレンタインのかけ飾りのミニ・ワークショップを開催、智子さんの手作りお菓子はチョコ苺大福で、これがもう熊本弁で言う「舞うごつ」美味しかった!
いつもお世話になってる生活相談員の弥永さんに智子さんがバレンタインのお菓子を用意してくれて、弥永さん、照れながらもめちゃ喜んでました(笑)
4月以降もメンバーのみなさんの協力で月に一度の頻度でボランティアを続けることになった。
メンバーもそれぞれに被災した立場なのだけど、この活動が支えになってると言ってくれた(涙)。
きれいごとでは無く、人は人のためにエネルギーを使うことで元気になる。
逆に自分のためだけにエネルギーを使っていると、一見省エネのように見えて、実はエネルギーは枯渇していくものだと思う。
これは道徳的な理由からだけでなくて、エネルギーの性質としてそうなっているのだと思う。
「与えることは受け取ること」と奇跡講座にも数えきれないほど出てくる。














EFTの新規のクライアントさんがぼちぼちと増えている。
アルバイトして、それ以外の日にセッションと食堂の仕込み、食堂オープンとなると完全なオフの日が無くなるけど、3月いっぱいまではこの調子でがんばろうと思う。
昨年の生まれ直しのセルフワーク以来、EFTのセッションが変わった。
セッションしている時に自分の中に、灯台の灯りのように、暗い精神の大海原を常に照らし、明るい方へといざなっている光を感じられるようになった。
そして、この光は「非個人的」なものだということが分かる。
自分がこの光を内側に見ながらセッションすると、方法論ではなく言葉にならない次元で、クライアントさんも内側にこの光を感じてくださることがよくある。
その時は実際に目は閉じたままでも「目の前が明るい感じがします」とか「頭のところに光が当たっている感じがします」と言われることも多い。
現実的に問題自体が解決したわけでは無いのに、クライアントさんのエネルギーが変化する。
この光は「命」なのだと思う。
命は肉体では無い。
命は肉体を超越している。
命は非個人的なもので分離を知らない。
命は、誰の中にも必ずあり、本人が自覚していようといまいと関係無く、その人自身を照らし導いている。
命は永遠で、死ぬことが無いから、その命の本質を感じるだけで、制限から来る恐れや欠乏感が自然に薄くなるのかもしれない。
わたしはEFTとレイキ以外に、今まで専門的にセラピーを学んだり、心理学を勉強したことは無いけれど、この光が導いてくれることに信頼を置いてクライアントさんに向き合って行こうと思った。

今朝読んだのワークブックの一節。
「(あんまり好きじゃない)兄弟に麗しさとか見れないよー!」という心の叫びにイエスがまたもタイムリーに答えてくれてました(笑)

「ひとりの兄弟はすべての兄弟である。
どの心もすべての心を含んでいる。
どの心も一なるものだからである。
しかしこのような考えが、創造の意味を明らかにするだろうか。
あなたはこのような言葉によって、完全に明瞭な理解を得られるだろうか。
それはただ空ろに響く音としか思えないはずである。
聞こえはよく、感覚的には正しく感じられても、根本的には理解されず、理解不可能なのではないだろうか。」

そうそうその通り。イエス様、世俗の人間のことをよくわかってらっしゃる(笑)

「憎しみは具体的なものある。
そこには必ず攻撃の標的とされるものがなければならない。
敵は、触れたり見たり聞いたりできて、最終的には殺すこともできる形として知覚されなければならない。」
「兄弟を肉体と見なす者は、兄弟を恐れの象徴として見ている。
そして彼は攻撃する。
なぜなら、彼が見ているのは自分自身の恐れであり、それが外側にあって、攻撃の構えをとり、再び自分とひとつになろうとして叫んでいる様だからである。
投影された恐れが次から次へと引き起こす怒りの激しさを見誤ってはならない。
それは猛り狂って金切り声を上げ、自分を作り出した者に飛びかかり食い殺したいと思うあまり、狂ったように爪を立てる。
このようなものを、肉体の目は兄弟の中に見ているが、その人は、天国がいとおしみ、天使が愛し、神が完璧に創造した者である。
それが彼の実相である。」
「ひとりの兄弟を、ほかの兄弟たちの象徴として選び、その人に向かって救済を求めなさい。
まず、できる限りはっきりと、あなたが見慣れている姿でその人を思い描く。
その人の顔や手足、服装を見る。
その人が微笑むのを見つめ、その人のいつものしぐさを眺める。
その後、次のように考える。
あなたが今見ているものは、あなたの罪をすべて赦せる人の姿をあなたから隠している。
その人の神聖な手が、あなたの手に打ち込まれた釘を抜き取り、あなたの血まみれの額から、あなた自身がかぶせたいばらの冠を取り外すことができる、と。
その人があなたを自由にしてくれるように、次のように頼みなさい。
聖なる神の子よ、私に祝福を与えてください。
私はあなたをキリストのまなざしで見て、あなたの中に私自身の完璧な無罪性を見たいのです。」
(ワークブック レッスン161)
好きになれない相手に、人は必ず自分自身の罪悪感を投影している。
誰かを咎めたくなる時、誰かを批判したくなる時、その咎めと批判は実は自分自身に向けられているものだ。
だから、そういう相手は「あなたの中にこんな罪悪感があるよ。わたしを赦すことで、あなたが自分に見ている罪が赦されるんだよ。」と知らせに来てくれている神の使者なのだ。





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歪んだ知覚

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きのうのお氣もち食堂は開店と同時に満席で、おかずもあっという間に無くなってしまった。
おかずが無くなった後にも初めてのお客さんがいらして、食べていただけなくてとても申し訳なかった。
週によってお客さんの人数に波があるので準備する食数は悩みの種なんだけど、でもそうかと言ってあの量以上の料理を一人でするのも限界がある。
お客様には迷惑かけることもあるけど、ここは「できたしこ」でと割り切るしかないなと思う。
服の裁断のアルバイト、わたし、なぜか他の人より倍近く作業が遅い。
何年といるベテランさんと比べたら当たり前だと思うけど、そうじゃなくて、わたしと一緒に入った他の二人の人に比べても格段に作業が遅いのだ。
自分なりに一番早く切れるような工夫をして、手もなるべく早く動かしているつもりなのに、何が違うんだろう?
「がんばってもできない」とか「がんばってるのに他の人より遅い」とか、こういう気持ちは「自分の土俵」で仕事してる時には味わえない。
「なんでできないんだろう?」ってもちろん凹むんだけど(別にそれでクレームが来たりはしないけど)、こんな気持ちを味わうことに意味があるなーと。
今まで触れてなかったツボを押してる感じがして、凹みながらも内心「いいぞいいぞー」とほくそ笑んでいる自分がいる(笑)
自分の土俵から出るって、エゴの解体には効果的だと思う(笑)

「奇跡講座」で一番理解が進んでいないところは「兄弟」に関する教えのところ。
奇跡講座でいう「兄弟」とは自分以外の個人、要するに全ての他人を指し示している。
特に奇跡講座では「兄弟の聖性」についてあちこちに記述がある。
これが何度読んでも完全には腑に落ちない。
自分が好きな人や長い付き合いの人を「兄弟」に当てはめて読むと、抵抗なくするすると理解できる。
けれど、どうしても「この人の中に聖性を見いだせない!」と思ってしまう人がいる。
極端な話、我が国のリーダー・アベさんとか、子どもや動物を虐待する人とか、猟奇的な殺人者だったりとか・・・
もちろんそんな自分から遠い人ばかりでなくても、身近な人の中にも「聖性」という言葉とは程遠い、と正直思ってしまう人がいる。
だからコースでこの「兄弟の聖性」とか「兄弟の麗しさ」について書かれてる箇所は、どこか上辺だけで読み進めていた。
きのう読んだ一節もこの「兄弟の聖性」についてで、わたしは敢えて自分があまり好きで無い人を想定して読むようにしているので、どうしても理解できない。
それで読みながらイエスに「自分が良く思ってない人に聖性を見ることがどうしてもできません。どうしてか知りたいです。」と心の中で答えを求めながら読んだ。
すると、読んでいる最中に今までと違う視座が開けた。(こういう打てば響くところがもう何よりの奇跡だと思う)

そこにはこんな文章が書かれている。

「実相があなたの見ているものとはどれほど異なるものかを聞かされたなら、あなたはきっと驚くだろう。
あなたはあの一つの誤りの大きさに気づいていない。
それはあまりにも広範で、まったく信じがたいものだったため、そこから全面的に実在性のない世界が出現せざるを得なかった。」

「あなた自身の内側では、あなたは兄弟を完全なる愛をもって愛している。
ここに聖き(きよき)地があり、その中にはいかなる代替も入り込めず、ここには兄弟の内なる真理だけしかとどまることができない。
ここではあなた方は神とひとつにつながっており、それと同じく、神の中で互いにつながっている。」

「あなたの中に分離はなく、いかなる代替もあなたを兄弟から離しておくことはできない。
あなたの実相は神により創造されたものであり、その代替はない。
あなた方はしっかりと真理においてつながっているのだから、そこに居るのは神のみである。」
(テキスト 第18章 実相の代替)

今まで「自分の目に映る」好きになれない他人の姿に、確固たる信を置いていたのがそもそもの間違いだったことに気づいた。
わたしは、自分の目に映るものをリアルだと信じこんでいたのだ。
エゴが見せる歪んだ他者(気に入らない他者)の中に、必死で聖性を探そうとあがいても、気に入らない他者への「解釈」を変えようとしても、そもそも自分の知覚が間違っているのだから、間違った知覚によって現れた他者を本当の意味で愛することなどできない。
だから、まず自分が見ているその他者の姿自体を疑う必要がある。
自分が見ているのは、本当のその人の姿なのか、と。
もし幻想から覚めた(投影していない)目で他者を見ることができたなら「そこに居るのは神のみである。」とイエスははっきりと言っている。
そして「実相があなたの見ているものとはどれほど異なるものかを聞かされたなら、あなたはきっと驚くだろう。」とも。
これは極論にしか聞こえないかもしれないけど、もし自分の知覚が完全に浄化された時には、世の中に他者を攻撃したり、自分の利益のために他者を搾取したりする人間自体が見当たらなくなる。そういうことなんだと思う。
これからは誰かのことを好きになれないと思った時には「この人を聖霊の目で見せてください」と祈ろうと思う。










起きて働いて食べること

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服地の裁断のアルバイト、今のところ楽しいです。
楽しいというより、おもしろい。
大きな作業台にバーンと生地を広げて、どのパーツからカットしたら一番効率がいいか、どの角度からカッター(はさみじゃなくてローラー型のカッターで裁断する)を入れたら切りやすいか、誰とも競争しなくていいけど、そんなことを考えながら黙々と裁断していくのが気持ちいい。
でもはりきり過ぎてカッターを持つ手に豆ができそうになってます(笑)
ノルマも無いし、誰が裁断したのかのチェックも無い。(こういうところがちょっと不思議)
しょっちゅう要らんところまで切ってしまって失敗もするけど、一度も嫌な顔をされたことも無い。
社長含め、見渡す限りみんな私より若い人ばかり。上下関係が無い感じで、誰かが誰かに怒られたりしてるところは見たことが無い。
起きて、働いて、ご飯食べて、働いた分だけちゃんとお金をもらえて、そんな当たり前のことがすごくありがたいです。
商売も本当にやり甲斐があるし、商売でしか経験できない喜びや楽しみもたくさんある。
どちらも好きだけど、商売と外勤めでは頭の使い方が(心の使い方も?)全然違うと思う。
今は、こうして与えられた仕事を淡々とこなして、きちんとその分の報酬をいただける、そんな生活にほっとする。
12年間お店を経営する中で、叶えたいことはほとんど叶えて来たからこそ、ここに落ちつけたのかもしれないとも思う。
もちろんこれからもお店は続けていくけれど、店に生活がかかっているというプレッシャーから解放されて、本当に自分が楽しいと思う事だけやれると思う。
今までは「ただ起きて働いて食べて寝るだけ」の生活は嫌だと思っていた。
そこに「私だからできること(私にしかできないこと?)」が無ければ満足できないと思っていた。
でも今はなんだかそういう欲が無くなっちゃったなぁ(笑)
でも、起きること、働くこと、食べること、寝ることのひとつひとつが今はうれしい。
それでいいんじゃないかなーと思う。
また叶えたい夢が出てくるのかもしれないけど、それもとても楽しみ。
でも今は本当に何も思いつかない。







「をかし」く「あわれ」な者

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自分とは何者かを探ること。自分とは何者かを証明しようとすること。
この二つのエネルギーが消えてしまったように感じる。
消えたは言い過ぎかな。すごく薄くなったというか。
今、自分が誰かに向けて発信したり、提供できることが思いつかない。
そうしたいと思う何かが自分の中に無い。
それが、今の仕事を一区切りにする時期だということだと思う。
自分が何者かを探ることと、自分が何者かを証明しようとすること、そこに使っていたエネルギーはすごいものだったと思う。
それは自我が生きる原動力そのもの。
もちろん、こんな自分でも役に立てることがあれば応じたいと思うし、目の前に助けを求める人がいれば自然に手を差し伸べるだろう。
でも、積極的に自分から何かを発信したいというモチベーションが無い。
「誰でもないんだなー」と最近ふと肚で感じる実感。
わたしとは・・・誰でも無かった。
この「誰でもなさ」を本当は深いところで求めていたのだ。
何故なら、その誰でもなさにこそ、安らぎと自由があるからだ。
誰でもない自分を感じる一方で、自分個人としてのカルマやパターンも逆にはっきりと見えてくる。
誰でもなさを感じたからと言って、そう易々と個人のパターンが消えてしまうものでは無いことがとてもよく解る。
それが・・・すごく面白いし、魅力すら感じる。
例えそれが自分を苦しめていることですら、そのどうしようもなさに、なんとも言えない可笑しみと愛おしさを感じる。
古語で「いとをかし」という言葉がある。
「をかし」は「もののあわれ」を言い表す言葉だそうだ。
現代語にすると趣き深いということになるけど、古語の方がこの表現しようの無い感覚の、深く複雑な神髄を突いていると思う。
をかしみ・・・は、あわれ、なのだ。
人とは、どこまで行っても「をかし」く「あわれ」なものだなーと思う。
それは決して悲観や憐憫ではない。
それは楽観とユーモアだ。
何かを「をかし」、「あわれ」、という感覚は、とても愛に似てる。











決断の主体

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きのうは数秘カウンセリングの後、リセット体験会、奇跡のコースシェアリングの会と3本立て。その後は毎月恒例のFさん主催の発達障害の当事者の会もさゆらで開催された。




コース仲間のゆうこさんからお借りした奇跡講座のDVDがとてもよかった。
翻訳者の加藤三代子さん直々のレクチャーで、さすが!と唸るような素晴らしい内容だった。
コースの神髄がみごとに体系立てて整理されている。
このDVDのおかげで、昨年末に経験した変容(生まれ直し?)の時に、自分の内側でいったいどういう事が起こっていたのかがとてもよく解った。
逆に、あの経験が無かったらこのDVDを見ても相変わらず頭だけの理解にとどまっていただろうと思う。
やっぱりあれは神の子としての自覚を取り戻したということだったんだなあ。
加藤さんの講座の中では神の子は「決断の主体」という言葉でも説明されていた。
何の決断かというと、それは分離か神の子のままでいるかを決断する(ことのできる)主体。
RFTのセルフワークで、他でもない自分自身が自ら望んで分離を決断したということが肚の感覚で解った。
それは決断の主体としての自分を取り戻した瞬間だった。


今日はアルバイトの一日目だった
まだ初日だからかもしれないけど・・・とても楽しかった。
ほぼ自分の願いの通りの職場で、作業しながら神様にありがとうと自然に感謝がわいた。
裁断する服地すべてに某有名ブランドのロゴがあるので「もしかしてフェイクじゃないの!?これ大丈夫か?」と不穏な考えが頭をよぎったけど、事前に聞かされてなかっただけでそのブランドの下請けの会社でした(笑)
裁断室の5,6人くらいのスタッフの中ではどうやら自分が最年長。
若い人たちが多い職場だけど、作業に集中力が要るので誰も無駄口はたたかない。
まじめな職場なんだなーと感心した。
本当に淡々と、黙々と服地を裁断して一日が終わった。今の自分にはこんな仕事が一番ありがたいのです。