沈黙への怒り

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大阪の地震、梅雨という時期が時期なだけに余計に気の毒に思う。
地震被災後のお天気は被災者にとって切実だ。
雨漏りしているお宅も多いだろうし、お風呂に入るのもままならない時に、このジメジメはかなりメンタルに来るだろうな。
熊本の人はよくみんな言うことだけど、地震の時期に気候がよかったのは不幸中の幸いだった。
それでもその後梅雨に入ってから、家の傷みが進んたことで辛い思いをされていた方は多かったな。
きのうはあの土砂降りの中、バイト先の農家の田植えだった。
何しろ10町(100反)の田植えをするのだから一日で終わるわけも無く、今週はずっと田植え週間だ。
代掻きが終わった田んぼに、そのつど苗箱を運び込む作業の繰り返し。
もちろん田植え自体は機械だけど、機械で行うのは本当に最後に稲を植える段階だけなので、2000枚近い苗箱を苗床から運び出し、トラックに積んで方々の田んぼに数を揃えて分配し、田植え機に設置するまではすべて人の手で行われる。
稲が育った苗箱はさらに重くて、ぬかるんだ田んぼの中を苗箱を持って歩くだけでも大変。
カッパは着てたけど、もうまったく意味をなさないくらいに全身ぐしょぐしょで、後半はかなり体が冷えてしまった。
阿蘇の奇跡の1000人田植えの時を思い出した(笑)あの時もすごい土砂降りで寒かったなー
なかなかに過酷だった田植えの後、夕べは熊本に帰って来たみどりちゃんを囲んで、いつものメンバー4人で食事。
上通りの裏のこだわり食材と雑貨のセレクトショップ「WHOLE SQUARE」でコースを食べた。
2000円でこの内容とボリュームはかなりお得感あり。
店内の売り場にずらりと並んでいるワインは、どれでもプラス500円でその場でボトルで購入して飲むことができる。








おとといのEFTセッション。
クライアントさんから出て来た感情は「神」に対するやり場のない怒りだった。
人生の中で数々の過酷な体験に直面して来たクライアントさん。
感情を追っていくうちに、「なんで私にこんな思いをさせるの!!?」という、神に対する激しい怒りが表出した。
その怒りは「あなたなんか信じられない」という深い嘆きに変化していった。
でもその感情の裏には、「ほんとうは信じたい」という強い強い神への希求があって、それが伝わってきて私も泣いてしまった。
「あーーー、なんで私が神様じゃないんだろう!!?なんで今すぐ癒してあげられないんだろう!?」と悔しい気持ちでいっぱいになりながらセッションした。
(こういう反応はセラピストとしては誉められたものではない)
「こんなにも救って欲しいと思っていたのに、どうして放っといたの!!?どうしてわたしに分かる形で救いを示してくれないの!!?」
こんな思いは誰もが人生の中で一度は経験するものだと思う。
映画にもなった遠藤周作の「沈黙」も、神への希求と、救い(神からのこたえ)を得られないことへの深い嘆きを描いたものだ。
そんなクライアントさんを見て思い出したことがあった。
阪神淡路大震災の時、わたしは朝刊配達をしていた。
朝から販売所で目にする朝刊の山。その一面には連日、拡大し続ける震災被害が大見出しで出ていた。
日を追うごとに数百人単位で増える死者・行方不明者数。
瓦礫の中から発見されるたくさんの遺体。
それを毎日毎日見ていたある日、自分の中で感情が爆発した。
それは神に対する激しい激しい怒りだった。
帰宅してから、まだ子供たちが起き出す前の時間、堪えきれずに床につっぷして嗚咽した。
どうしても、今すぐにこの気持ちを神に聞いて欲しかった。神からの答えを聞きたかった。
「どうしてあなたが居ながら、こんなに惨いことが起きるのですか!?瓦礫の下で死んでいった子どもたちに、いったい何の罪があるのですか!?」

今は、もう決してそのような問い方はしない。イエスが教えてくれた答えがあるからだ。
その答えは「神はこの世界を創らなかった」ということだ。
この答えの他に、いったいどんな救いがあるというのだろう。
神は、わたしたちが見ているこの悲惨な世界を知りもしないのだ。
なぜなら、これは自我が見ている夢だから。
神に見えるのは、悪夢に怯え苦しみながら目を覚まさないでいる私たちの姿。
神は「悪夢から目覚めなさい。それが夢だと気づきなさい。」と傍らでずっと、うなされている私たちを揺り起こそうとしている。
と、この話をクライアントさんにもした。
この世界(人生)を神が創ったと思っている限り、けっして救いが訪れることは無いのだと。
クライアントさんは、もう心底「キョトーン」とされていた。そのことを理解はできないけど、何か深いところで思いもよらない反応が起きているように見えた。
長くなるのではしょるけど、もちろんこの「真理」を伝えるタイミングはものすごく重要だと思う。
まずは、感情は感情として充分に解き放たれる必要がある。
もし真理を知ることが、感情の抑圧につながってしまったら本末転倒だから。
「これは夢なんだ。だから怒りや悲しみを感じる私は間違っている」という捉え方をされるくらいなら、いくら真理だと言えど伝え無い方がいい時もある。





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感情への抵抗を解く

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孫が切れキャラだということがだんだん分かって来て面白い。
怒りを表現することに躊躇しない。ストレートにプンプンするのでとても分かりやすい。
「路子もそうだった」と母。
そうです、わたしも親戚の語り草になってるほどの切れキャラでした。
通りすがりのおばちゃんが「かわいかねー」とほほ笑みかけて来ると「見るな!」と切れていた(笑)
そのたびに親や祖母が謝った。子どもながらに無遠慮に見られるのが嫌だったんだと思う。
別に常に不機嫌だったわけじゃなくて、怒りの感情に敏感だったし、それを表に出すことに躊躇がなかった。
で、去年の暮れに自分の中の闇を統合して、またこの切れキャラが復活した感がある(笑)
怒ることに罪悪感が無くなったんだね。
というより、それがどんな感情だろうと、感情が出ること自体に抵抗が無くなったことに気づいた。
怒り、罪悪感、嫉妬、羞恥心、虚栄心、怠慢・・・
「統合以前」はこういう「見苦しい感情」をどうにかオブラートに包んで誤魔化してみたり、無理矢理に状況を「良い方に」捉えてネガティブな感情が出て来ないようにコントロールした。
それは「見苦しい感情」を罪だとみなしていたからだし、感情=自分というように、感情を自分だとみなして完全に同化、一体化していたから。
今は、感情は「わたし」では無いことが分かる。
体がわたしではなく、思考がわたしではなく、あらゆる「知覚可能な物事」はすべて本当の「わたし」ではない。
感情、思考、体は、目の前のパソコン、ポット、鏡・・・が現れているのと全く同列の存在として、ただ現れている。
現れているものは、すべて「中立」だ。そこには意味も価値も善悪も無い。
晴れていた空に、突然雲がかかるのと同じように、今まで平安だった心の中に突然怒りが湧いて来る。
そのことには善も悪も無い。
抵抗しなければ、それはただ過ぎ行くものだ。
これに関連して、以前は何か義務的に行動することに妙な罪悪感があった。
それはすごく不純な気がしていた。
例えば、わたしは定期的に体の不自由な叔母を見舞いに行くけど、ぶっちゃけると、行きたくて行くことはほとんどない。
もちろん叔母の顔を見れば愛おしさを感じるし、何より叔母がとても喜んでくれるので見ていてわたしも嬉しい。
でも、行く時はいつも「そろそろ行かなきゃな」という義務感と、お見舞いに行かずにいることで叔母を見放しているような罪悪感・・・要するに「悪い人」になっちゃう罪悪感から行くことがほとんどだ。
でも、このことも最近は自分の中で受け入れてしまった。
罪悪感からお見舞いに行ってもいいじゃん。義務感からお見舞いに行ってもいいじゃん。
なぜって、こっちの動機がどうであれ叔母が喜ぶならそれでいいからだ。
いつもいつも愛だけではいられない。
一方で、動機のすべてが罪悪感や義務感だということでも無い。
そこには、愛とエゴが微妙に入り混じっている感情がある。
これが人間だ。
子育てだってずっとずっとそうだった。
愛だけでやって来たわけじゃないし、かと言って義務感だけでやって来たわけじゃない。
わたしたちは、そういう意味ではまだまだ「愛の未熟者」。修行の途中なのだ。
未熟なわたしたちは、日々いろんな事に反応して、反応はすぐさま感情として現れる。
そこに理性やコントロールが入る隙間も無いほど瞬時に、感情は現れる。
そこに一切の罪は無い。
どんな感情も裁かなくていい。人間だもの相田みつを
(とかあんまり書いてると、ほんとに相田みつをファンって思われないか不安。という感情が瞬時に起こりました)
最近、このさまざまな「現れ」の移り変わりの早さや極端さに呆れかえることがある。
自分も、人の心も、社会情勢も、お天気も、物事に付与される意味や価値も、なんという落ち着きの無さで動き回り変化し続けているんだろう。
こんなものにいちいち本気で取り組んでたら、正気でいることなんてできないと、つくづく思う。

話は変わって、
今日はイエスとダイレクトに対話ができた感じがあったのでメモ。
今日は午後からなんとなく「奇跡講座・、マニュアル」をぱらぱらと読み返していた。
すると、なんとなく自分の中にすっきりしない感があって、それが気になって来た。
「統合」以降、罪悪感はほとんど無くなった。じゃあ、心はすっきり青空かというと、そうもいかない感じ。
もちろん、いつも心が晴れてなくちゃいけないということも無いし、そんなことを目指したらそれこそまた首を絞めることになるし、第一、いつもハッピー幸せいっぱいなんて、そんな人はいないと思うけど、マニュアルを読んでてこの薄ーい霧がモヤ~ンとかかってる感じに自然にフォーカスしていた。
EFTでこの霧が持っている感情を探って行った。
それは、寂しさだった。
なんで寂しいのだろう?これは人恋しさとも違う、孤独感とも違う、現実のレベルで何かを求めているのとは違う寂しさだった。
ふと、目の前に貼ってあるイエスの絵に、無意識にたずねていた。
「なんでわたしは寂しいんでしょう?」
するとすぐに答えが返って来た。
「あなたが神の愛をまだ全面的に受け入れていないからだ」と。
あー、そうだそうだ。その言葉、この気持ちにぴったりだ!
足りなかったのは、神に愛されている実感だったのだ。
では、なぜわたしは神の愛を一部受け取り拒否しているんだろう?
どんな「メリット」を感じて、神の愛を受け取り拒否しているのか。
神の愛を全面的に受け入れたら「何が困る」のか。
答えは、神の愛ですべて満たしたら、もう「一人でいることができなくなるから」だった。
もう、何に対しても壁を作ることはできない。神の愛をすべて受け入れることは「完全につながる」ということだから。
わたしは一人が好きなのだ。
人とつながることへの恐れももちろんあるけど、一人でいることは純粋に悦びでもある。
でも、もしかしたらこれはわたしの勘違いかも。
神と完全につながることが、わたしの悦びを犠牲にすることに繋がることなんて、そんなはず無いんだと思う。
この勘違いが解けるかどうかがポイントかなー?















書くことへの促し

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わたしのフェイスブックの投稿を読んで、また出版に関わるお誘いを受けた。
ずっと個人の日記として好き勝手に、読み手を意識しないで書き溜めて来たことを、最近は「外」に向けて書くようになった。
というか、いつも「これを書いてみてごらん」という促しを感じるから、促しに従って書いてみている。
すると、不思議とそこに反応して声をかけてくださる方がいるのだ。
外に向かって文章を書くのはとてもいい訓練になる。
あらゆる「予備知識」が無い人に、このことを伝えるにはどうしたらいいか、そこに思いを馳せながら文章を構成するのは、この日記に独り言のように書く時とは全く違う頭の使い方をするから。
共著という形で本を作りませんか、とお話しをいただいて、断る理由もないし、是非一緒にやってみたいと思う人だったので、ふたつ返事で引き受けることにした。
すごい経歴の方で、まったくもって私なんかとは不釣り合いで、声をかけてくださった時にはすごくびっくりした。
でも何かピンとくるものを感じてくださったようで、そこはあまり謙遜しないで素直に受け取ろうと思った。
Rさんの翻訳の編集もこのまま関わることになったし、どうも書くということで流れが来ているみたいだ。

一方、食い扶持を稼ぐということに関しては、これはこれで考えないといけない。
夏場は農業の求人が少ない。あっても早朝からの数時間だけと、暑さのせいで作業ができる時間が限られてくるので、農業のパートはちょっと難しいのかなと思う。
ということで、求人情報をチェックしたら、阿蘇のお菓子工場で年内いっぱいの求人があった。
時給もとてもいいので面接に行ったらその場で採用になった。
デコレーションケーキの上に飾るサンタや動物の形の砂糖菓子や、メッセージチョコプレートを作っている工場で、工場といっても機械のラインじゃなくてほとんど手作業とのこと。クリスマスシーズンに向けての臨時の求人だった。
もう一応採用になってるけど、座ってやる作業が多いのが少々不本意かなー。最近は立ち働いている方が好きなのだ。
今後は家にいる時は文章に向き合う時間が増えるから、日中の仕事は体だけ動かす単純作業にしようと思った。
ずーっと頭脳労働するのはきっと疲れる。

この4月からカメラマン担当になったテレビ局勤めの息子。でもどうしても現場の雰囲気が合わず、息子には珍しくストレスでかなり参っていた。
別に意地悪な人がいるわけでもなく、技術的に難しいということでもなく、理由としては番組制作の現場の体育会系のノリについていけなかったらしい。
仲間意識も強いから食事や休憩もみんなで一緒。一人でいられるのはトイレの中だけだそうだ。
ストレスでご飯が食べられなくなっていてとても心配したけど、結局息子がちゃんと上司に相談して、元のマスター担当(オペレーション)の部署に戻してもらうことになった。
局側としてはせっかくカメラマンに抜擢したのに、という気持ちだったみたいだけど、元々上昇志向にはまったく興味が無い息子だから、本人のペースでのんびりやれる場所が何よりだと思う。
一回だけ、九重からの中継の時に遠くからの引きの画面に、カメラを構えている息子が映った。
テレビカメラマンの息子を見た、あれが最初で最後になったな。写真撮っとけばよかった。





人生折り返しの初体験

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今日は人生ではじめて、ハローワークに出かけた。
求職票なるものを作成してきました。
今の農家アルバイトがあと一か月で終了。店だけでの収入ではとても暮らしていけないので(レイキ伝授もやめたし)、7月からの仕事探しにぼちぼちかかろうと思っている。
レイキ伝授のお申込み、相変わらずお問合せいただいていて、先日も大分の方から伝授を受けたいとお電話が。
以前熊本でわたしから伝授を受けた方が勧めてくださったそう。
ありがとうございます。そしてお断りして本当に申し訳ありません。
求職票に書き込む時、耳が悪いことでできないことが実にたくさんあることに改めて気づいた。
結局残るのは体を使う軽作業か、PCでの作業になってしまう。
わたしはPCはスキルが無いし、じっと座る仕事が合わないので、消去法でいくと農業や製造業になる。
通勤範囲内の農業の求人はやはり少ない。
30件くらいしかヒットしなくて、そのうちの大半が勤務時間が短すぎる。
7月からに間に合うように、いい仕事が見るかるといいな。

チームおひさまとしてのボランティア活動のこと、最近はフェイスブックにしか書いていないので、近況をご報告します。
募金などでご支援いただいた方で、フェイスブックのアカウントが無くて、ブログだけ読んでくださってる方もおられると思うので。
「和みのおひさまカフェ」活動は本年度から毎月一回になりましたが、引き続き活動してます。
先月、熊本市から感謝状をいただきました。
不思議だなー。どこでチームおひさまのことを知ったんだろう!?
こうして続けていけるのも、息長く活動に協力してくださるメンバーのみなさんのおかげです。ありがとうございます。










おとといは毎年命日のころに開催される、友人のまうじの追悼野球大会「ベライーヨ杯」が地元鏡町で行われた。
40歳を一日だけ生きて天国に行ったまうじ。野球大会も今年で9回目です。
今年は鏡小学校のグラウンドで開催された。
11時過ぎに集合し、お隣の公民館で試合前のお昼ご飯をみんなでいただいた。
今回も、まうじのお母さんとお友達の婦人会のみなさんが二日がかりで料理してくださった食べきれないほどのご馳走!!
もーね、このご馳走を前にすると、どんなに暑かろうと大会参加へのモチベーションが上がるというものです。
正直、野球は二の次三の次、目当てはこのご馳走だけですよ。
お腹いっぱいになったところで(これから試合というのに)、お隣のグラウンドにぞろぞろとみんなで移動。
小学一年生から80代のおじいちゃんまで、まうじの家族親族、友人、東京から遠征して来てくれた野球チームのメンバーが入り乱れての、おそらく日本一敷居のひくーい野球大会(笑)
小学二年生のピッチャー君がすごい健闘ぶりだった。
わたしも二回バッターボックスに立って、まぐれなのか、二回とも球が見事バットに当たり塁に出ることができた。
全力疾走したの、どれくらいぶりだろうか?(笑)
でもやっぱり走っていて昔より体が軽くなってるのを感じた。
この日は今年一番の暑さ、おまけに風はあまり無く湿度は高く、試合開始から1時間半ほど経った4回裏で試合終了となった。
試合が終わってみんなで近所の温泉で汗を流し、夜は島田家に場所を移して打ち上げの宴会。
これまた「ここは竜宮城か!?」ってくらいのお刺身、寿司、馬刺し、などご馳走がズラリと並んだ。
はーー。幸せだったー(しみじみ)
農家にバイトに行くようになって、体を動かす、食べる、寝る、のひとつひとつが快感なのだ。
食べることは今わたしの最大の楽しみかも。
おかげで運動量は増えてるにも関わらず、決して痩せはしません(涙)
それにしても、これといって特別なことな何も無い一庶民の、追悼野球大会が毎年あるというのはかなり珍しいことだろう。
これもひとえにまうじという人の不思議な魅力のなせる業なんだろうな。
初回の「ベライーヨ杯」熊本大会のことは新聞記事にもなって、その記事を読んで感動したある男性が、まうじの歌を作って島田家に披露しに来たというエピソードまである。
この男性、どうやらうちのご近所さんらしく、このまうじの歌は健軍商店街のイベントなどでも歌われているそう。
これが・・・不覚にも涙してしまったくらい・・・いい歌なのです。
まうじのこと何も知らない人なのに、歌の中にちゃんとまうじがいる気がするのが不思議。
試合の翌日、洗濯物を干しながら「まうじは半分人間じゃなかったんだなー」と確信のようなものがあった。
多分本人も完全に無自覚なんだろうけど、まうじこそ、本物のライトワーカーだと思った。
スピリチュアルなことなんててんで興味も無かったけどね。
奇跡のコースを学んだから気づいたことだけど、まうじは「投影」無しに人と世の中を見ていた人だった。
人や、物事を、自分の色眼鏡で見るということが無かった。
きっと色眼鏡自体が無かったんだ。
色眼鏡無しで(投影無しで)、世界を見ることを、コースでは「聖霊のビジョン(視覚)」といいます。
そっか、まうじは聖霊だったんだねー















形か心か

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自分の中でレイキ伝授辞めます宣言をしたら、3日連続で伝授のお問合せをいただいた。
お二人は予約をとのことで、お一人は福岡の方だった。
10年以上レイキ伝授をしていて、3日連続で伝授の予約や問い合わせが入って来ることはとてもレアで苦笑せずにはいられなかった。
自我が「やめんの!?ほんとうにやめんの!?」って迫って来てるんだろうなー(笑)収入源としては半分近く占めていたから。
「そういうわけで、タイミングが合わずに本当にすみません!」とありのままの事情をお話しして、3人ともお断りさせていただきました。
農家アルバイトのおよそ二週間分に相当する仕事だったのに、自我は「ばっかじゃないの?」と目を白黒させてます(笑)

このレイキ伝授の件にも顕著だけど、今、自分が本当の意味で「形か心か」の選択を問われているのだなと強く感じている。
いや、自分で自分に問いかけてるだけなんだけども。
もうそこの選択を曖昧にする(曖昧にできる)段階を過ぎて来てるんだなーと思う。
数か月前だったら、きっと「心」はもう伝授から離れていても「お金(形)のために」受けていたと思う。
というより、受けることができていた、と思う。
でも今はそれができない。
それは決してお金が汚いとかそういう意味合いじゃなくて、そのことが「形」がリアルであると宣言することだからだ。
微妙な話になるのだけど、これがマッサージとか占いとか物販とかなら抵抗なく続けることができる。
別に、楽しくない仕事をお金にためにやるのが不純だとか、そういう事を言いたいのでもない。
理由はひとつ。レイキ伝授は自分にとっては仕事じゃなくて魂に携わることだったから。
だから自分の魂がきちんとそこに込められていなければ、やってはいけないと思っている。
心より形を選んだ時、形の世界は存続する。
わたしはつくづく、形の世界に救いは無いことを理解した。形は「無」だから。
自分は形の世界を存続させたいのか?形の世界で生きたいのか?
答えはノーです。
ならば、心を選択することをしていかなくてはならない。
それが、自分が生きたい世界を創造するということだから。
きのう畑に行く途中、朝の通勤時間帯の東バイパスで、車線の上にカラスが落ちていて血を流してもがいていた。
かわいそうでかわいそうで、でも急に車を停めることもできなくて、半泣きになりながら「神様早くあの子を天国に連れて行ってください!」と祈った。
そしたら「それはあなたの心が投影したものだよ」と余裕の声が返って来た。
その瞬間に「あー、そうか。自分はまた形をリアルなものにしていたんだ!」と気づかされた。
これ、聞く人が聞けば「なんと冷たい!幻想だから取り合うなってこと!?」と憤ると思うけど、もっともな感想だと思う。
ちょっと前の自分もそうだったし、今でも、この「肉体の生死に関わる見かけ」にはすっかり動揺してしまうから。
でも、この肉体の負傷、痛み、生死への信念こそが、エゴが仕掛けた最も強力かつ大掛かりな舞台装置なのだ。
すべての、この地球上の不幸の原因が、この「肉体の死=命の死」という信念にある。
戦争、経済の独占、貧困、環境破壊、これらの根本には「生きるため(肉体を維持するため)には得なければならない。得られるものには限りがある。より多く得たものがより長く生きる」という信念がある。
このどれもが「命には死という運命が待っている」という信念に基づいている。
そして更に、ここでいう「命」は「肉体」と見なされている。
もし、「肉体=形」が「無」であるなら、すなわち「命」が「形」を取らないものなら、命を存続させるために「必要なもの」など何も無いことがわかる。
「必要なもの」が無ければ、あらゆる争いは起こるはずも無いのだ。
だから、人類が「形」がリアルだと信じる限り、この世から不幸は無くならない。
この世の問題の解決法は、すべて形が形に働きかけるものだ。すなわち「無」が「無」に働きかけることで問題を解決しようとしている。
そうじゃなくて、本当の問題の解決は、心のレベルでなされる必要があるのだ。
「形」が「無」である、と(おっかなびっくり)仮定して生きてみると、実に不思議なことにそれを証明する現象がちゃんと起きて来る。
こういう出来事が重なるごとに、「形」が幻想であると、少しずつ少しずつ信じることができるようになる。
そして、ある時点でそれは確信になる。
でも目の前で血を流して倒れている人がいても「幻想だから取り合うな」ということじゃ断じてない。
癌に侵されて死を間近にした人に対して何も感じないことが正しいなんてことでもない。
そうじゃなくて、そこに「死にゆく肉体」を見るのでなくて、あくまでその人の「永遠の命」にフォーカスして向き合うという、心の状態の話なのだ。
その人に向き合う態度は同じでも、その人に「肉体(形、無)」を見るのか「命(心)」を見るのか、そこに大きな違いがあるということだ。
コースが説いているのは、いつも必ず「心」のレベルでのこと。
どういう「心」でその行動を取るのか。
「心」が何を選択したのか、そこにいつも意識を向けるようにとイエスは説いている。
心には二つの選択肢しかない。
それは「自我(=肉体、死)」か「聖霊(=永遠の命)」かだ。
けれども、片方の選択肢は「無」だから、おのずと選択肢は一つに絞られる。