FC2ブログ

人類の子ども達

Posted by michikosayura on   0 comments

先日5日の夜、北海道行きの飛行機を予約した。人生初の北海道だ。
そして、日付が変わった深夜に北海道で震度7の地震が発生。
翌朝起きぬけに見たスマホのニュースに唖然とした。
なんというタイミングだろう。
すぐに真紀子さんに安否確認のメッセージをした。
真紀子さんのパートナーは今NYにいて、真紀子さんは家に一人のはずだ。
震源から30キロだという真紀子さんのお家は無事で、物ひとつ壊れていないということ。
来月のカースティンのリトリートも問題無く開催できると思うとのことで、ほっと胸をなでおろした。

公開の翌年あたりに一度DVDで見た「トゥモロー・ワールド」を再見。
監督は「ゼロ・グラヴィティ」でも高く評価されたアルフォンソ・キュアロン監督。
一度目に見た時もすばらしい完成度と表現力のある名作だと思ったけど、あらためて見てもやはりすごい。
語り草になってるラスト8分間長回しの戦闘シーンは拍手を送りたくなる。
とはいえ、テーマがテーマなだけに見ていてかなりヘビーな気持ちになる。
原作タイトルは「人類の子ども達」
人間が生殖能力を失った未来。2027年のイギリスがその舞台で、世界は荒廃しきってテロが蔓延している。
そんな中、奇跡的に子どもを身ごもった少女が主人公セロの前に現れる。
セロは反乱軍に狙われた少女を守り抜き、出産にまで導く。
全編通して灰色に重く荒んだシーンが続く。
だからこそ、少女に抱かれた生まれたばかりの赤ん坊は、画面の中でより神々しい生命力を放つ。
戦闘のただ中をセロに守られながら逃げる少女と赤ん坊。
反乱鎮圧のために戦っていた兵士達が、少女に抱かれた赤ん坊の存在に気づき、胸を打たれてしばし戦闘を止めてたたずむシーンは涙を誘う。
自分が子どもを産んだ時の気持ちを思い出した。
新しい生命の、言葉にならない神聖さに出会った時の感動を思い出した。
そして「生まれる」ことが神聖さでなくてなんだろう!?と強く感じた。
ブッダも、コースのイエスも、命は生まれもしないし死にもしないと説く。
命が、生まれては必ず死ぬように「見える」のはエゴをリアルにするための大掛かりな仕掛けなのだと。
それに反発する自分を感じた。
肉体を持ってこの世に生まれ出るという、その瞬間は間違いなく神聖で、エゴの仕掛けなんかでは決して無い!そう思った。
それでそのままの気持ちをイエスに伝えた。
すると、イエスからフィーリングが返って来た。
それは言葉にするなら
「生まれたばかりの赤ん坊の神聖さは、本来のあなた方の姿にかなり近い。
けれども、肉体を見ているかぎり、その神聖さはいつまで続く?
あなたは小さな肉体に制限された、有限の存在ではない。
その神聖さは肉体という制限を一度も持ったことがない。
その存在の無限の神々しさをあなたはイメージできるだろうか?」
そんな感じだった。
それでまた改めて、やっぱり肉体というのはエゴの作り出した一番強力な幻影なんだなと思った。
最近、ふと読みたくなった本、見たくなった映画に必ずメッセージがある。
今日も「こんなヘビーな映画見なきゃよかったなー」と途中後悔しながら見てたけど、やっぱり最後にメッセージを受け取れた。

それから最近、健忘がひどい(笑)
日常に必要なことは逆にきちんと覚えているし、以前より苦労しないで、必要な時に必要な事を思い出せるようになっている。
まるで脳内にタスクのお知らせ機能がついてるみたいに。
けれど、少し前の自分の内側で起こった変化とか、以前に抱いていた気持ちとか、概念とか、そういうものは一度「上書き」されると思い出せなくなっている。
より、今ここにしか意識が向かなくなっているのかな。





スポンサーサイト

何もしなくていい という真理

Posted by michikosayura on   0 comments

最近、朝起きた時になんとも言えない満たされた感覚がある。
去年まで、朝起きるたびに得体の知れないネガティブな感覚に襲われていたことを考えると、回り舞台のように舞台がクルっと一転してしまったような感じがする。

その満たされた感覚を言葉にするなら「何もしなくていい」という一言になる。
この感覚を感じている時は必ず、大きくてあたたかいものに無条件に守られて包まれている気がする。
わたしは完全に庇護された小さな子どもだ。
そのわたしを包む大きくてあたたかいものがわたしの世話をしてくれる。
だからわたしは何もしなくていい。
もちろん、その感覚をしばらく味わったあとは、起きて洗濯してお弁当作って仕事に出かけなくてはならないのだけど、そういった行動のレベルでは無い「存在」のレベルで、わたしは何もしなくていいのだ。
「何もしなくていい」存在、として、家事をし、働き、人と話すことができる。
というか、できるようになったんだなー。

工場のみんながとてもあたたかい。
みんなとても助けてくれる。
だからわたしもみんなを助けたいと思う。
どの人もそれぞれに個性的で愛すべき部分があって、どの人も「好きだな、この人」と思える。
9月からはクリスマスシーズンに向けていよいよ繁忙期に入るので、今までより勤務日数を増やそうと思う。
(そこも自由なんだけど)
店の仕事も入るから、またなかなか休みが取れなくなるけど、仕事が楽しいのであまり苦にならない。
がんばろっと。

北海道のカースティンリトリート、リトリートの前日から行って翌日帰るつもりだったけど、真紀子さんがもう一日いたらゆっくりカースティンたちとも交流できますよ、と言ってくださって延ばすことにした。
カースティン、ラファエル、大橋のりこさん、真紀子さんと共に過ごす4日間。夢みたいだなと思う。 
あ、夢だった(笑)
ラファエルがガイダンスに従って撮ろうとしている映画のHPがアップされた。
タイトルもずばり「ジーザス・イン・ジャパン」!
https://www.jesusjapanfilm.com/





つながらなければ成し遂げられない

Posted by michikosayura on   2 comments

きのうは50歳の誕生日でした。
ついに亡くなった父の歳を超えたんだな。
半世紀、大病もせずに危険な目にも合わずに、守られて生きてこられたことに心から感謝。

「50歳で出会う」と、密かに大手企業にも霊視を依頼されている、凄腕の霊能者に言われたことがある。
他にもたくさんいろんな事を言われたけど、今までほぼすべて的中している。
で、きのう「きっとそれはこの事だったんだ!」と思うようなミラクルが起こった。

事の発端は北海道のコース読書会主宰の真紀子さんがコミュニティへの投稿した文章だった
その名もラファエルという(ここからでき過ぎ)コース実践者のポルトガル人が、「コース学習者を取材したドキュメンタリー映画を撮る」というイエスからのガイダンスを受けていた。
ラファエルはすべてガイダンスに従ってこの映画を撮ると決意していた。
しばらくするとまたラファエルにガイダンスがあった。
それは「日本!日本!日本!」と告げていたそう。
日本のコース学習者の間で重要なことが起こっている、それを目撃して映画にしなさい。とイエスは言ったそう。

そして奇しくも、もう一人「日本!日本!」というガイダンスを受け取っていた女性がいた。
それは、この日記でも動画をアップしたコースの教師、アメリカ人のカースティン。
カースティンも「日本に行きなさい」とガイダンスを受けて、この秋、大橋のりこさんのオーガナイズによって日本でリトリートを行うことが決まっていた。

日本の学習者なんて考えにもなかったし、誰一人として知り合いもいなかったので、ラファエルはネットで検索した。
そこから日本でコースの教師をしている大橋のりこさんにつながった。
しかも、もともと親交があったカースティンがのりこさんの所でリトリートをするという。
ラファエルは「これだ!」と確信したそう。
カースティンのリトリートに合わせて一緒に来日、リトリートの様子も取材することに決まった。

カースティンのリトリートは葉山ののりこさんの拠点と、北海道の真紀子さんの「森のひろば」で開催される。
ラファエル、カースティン、のりこさん、真紀子さんがつながった。
ラファエルはリトリート後も2か月ほど日本に滞在して、日本のコース学習者を取材するとのこと。

真紀子さんはこのことをコミュニティに報告すると同時に、ラファエルがイエスのガイダンスに従うようになった経緯を紹介した。
その中に以下のようなエピソードがあった。
長いので真紀子さんの投稿を転載させていただきます。

~~~~~~~~~~~

ポルトガル出身の彼は、22歳の時、全てを捨てて、目覚めの道に入ったそうです。
タイの僧院で、仏教系の瞑想修行をしながら、心の暗闇が浮上してくるのをゆるしていいんだと思いながら暗闇に圧倒されるようになり、あらゆるところから聞こえてくる叫び声の幻聴に悩まされ、視力、聴力もみるみる減退していき、立って、動くことすら難しくなるところまで行ったのだそうです。

その後、ディヴィッドとつながって、リビングミラクルコミュニティに招待され、次第に回復して行ったのだそう。

治癒の鍵になったのは、他の人々を非難しながら隠遁し引きこもっていた自分は、実は、 自分自身を非難し、攻撃していたこと。
非難すべき人々は、自分の心の中にあるものの投影だったこと。
だから、人をゆるすことで、自分をゆるすことができること。
このシンプルなことの積み重ねに出口があり、自分の周りで聞こえる「叫び」と自分の間に少しずつ距離が感じられてきました。
そのためには、ほんの少し、意欲があれば済むことだったことに気づいたことだったのだそうです。
自分は暗くて、無価値、でも、特別でありたい。だから隠れて引きこもっていたい・・・
これまでそんなアイデンティティの混乱があって、それを状況や人に投影して、おびえていたけれど、人の無垢さを見るとき、自分の無垢さも見え、そこに神が見え、本当は自分も人も神の子だとわかる。そのとき、アイデンティティの混乱も溶けていったそうです。

そうして癒されていくプロセスの中、数え切れないほど奇跡があったそうですが、その中の一つに次のような話があります。

みんなでイエスについての映画を観ていたときのこと。当時のラファエルは、映画を見るのも、みんなと一緒にいるのも、辛くて、15分が限度。
そろそろ席を外して部屋を出ようとすると、ちょうど映画の中で、イエスが、足の不自由な男に、「立ち上がって歩きなさい!」と言うシーンだったそうです。
そのイエスのセリフがラファエルには、「振り返って、見なさい!」という声に聞こえたそうです。
その声に対してラファエルが、「できない!」と心の中でいうと、映画の中の足の不自由な男も、同時に「できない!」と言います。
するとまたイエスが、「立ち上がって歩きなさい!」と言い、ラファエルはまたしてもそのセリフを、「振り返って、見なさい!」と言われているように聞き、ラファエルも映画中の足の不自由な男と一緒に「できない!」と叫んで、部屋を去ろうとしたのですが、ふと振り返って、もう一度映画を見ると、それまで感じられた苦しみがいつの間にか消えて、自分がみるみる癒されていくのを感じたそうです。
で、映画のその続きを見ると、映画の画面の中でも、男が癒されていつの間にか立っていて、「あなたが私を癒してくれた」とイエスに言いました。
すると、イエスは、「あなたの信仰があなたを癒したのだ」と答えたのだそうです。
その言葉を、ラファエルは、自分に言われたように思います。

そんな体験を重ねる中、ラファエルが気づいたのは、「自分でなんとかしよう」という思いが、恐れを強め、症状の悪化を招いてたこと自分でなんとかする必要なんてどこにもないことに気づいて、聖霊を、イエスを、心強い仲間を「信頼」して強い信仰の下、すべてを ゆだねることが、暗闇からの脱出の鍵だということでした。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

このエピソードを読んだ時、鳥肌がたって涙が出て来た。
日記にも書いたことがあったけど、わたしは高校生の時にトルストイの「光あるうちに光の中を歩め」を読んだのだけど、その中にこのイエスと足の不自由な男のエピソードが出て来た。
学校の図書館で借りたこの本はとても古くて、訳も古めかしいものだった。
そこに書かれていたイエスの言葉はこうだった。

「立て。しかして歩め。」

このイエスの言葉は真っすぐに自分に向けられているように感じた。
神への信頼が、すべての不可能を可能にするのだという強いメッセージを受け取った。
神への信頼は、そのまま神の子である自分への信頼でもある。
受験を控えていた私は、自分を鼓舞するつもりでこの言葉をA4用紙に書いて、勉強机の横に長いこと張っていた。

この自分の経験談を真紀子さんの投稿のコメントに書いた。
真紀子さんはその話をスカイプでラファエルに伝えた。
ラファエルはぜひその人の話を取材したいと、目を輝かせたそう。

おとといの晩、真紀子さんから「航空券付きのご招待とはいきませんが、空港まで送迎、宿泊付きで北海道のリトリートに来ませんか?」とメッセージをもらった。
読んですぐに「無理。お断りしよう」と思った。
ひとつはお金のこと。もう一つは仕事を休むという抵抗感、そして実は一番大きかったのはインタビューを受けるということだった。
それからお風呂に入った。
断りの返事をどう書くか考えていた時、「行くべき!」という心の声がかぶさった。
その声はいつになくキッパリ、ハッキリしていた。
「行くべき」の声を聞けば聞くほど、恐れがしゅーっと小さくなっていった。
こういう時、これは「私」が行動するのでなく真我が行動する機会なのだと分かる。
真我の決定に抗うことはできないことはよーく知ってしっている。
お風呂から上がってスマホを開いて「リトリート、参加の方向で検討しますね!」と笑顔マークも添えて返信した。

そしてきのう、まさに50歳の誕生日の朝、古新聞の整理をしていたら沖縄の翁長知事の追悼の記事が目に止まった。
「また一人、心あるの政治家さんが亡くなってしまったな」と思うと同時に世の中に対する深い無力感を感じた。
「どうせ世の中変わらないよね」という、社会を憂いる気持ちと諦念を感じた。
その時に「つながらなければ成し遂げられない」というイエスの大音響の声が聞こえて来た。
一瞬のうちに諦念が希望に変わった。
それは「つながることで成し遂げられる」というメッセージに他ならなかったから。
何を為し遂げるのか。それは個人レベルのゆるしのことを言っているのではなかった。
それは世界の救済。「夢」を終わらせることだった。
今まで「良心ある人たち」が繰り広げて来た、幻想に幻想で働きかける世直しではない、ほんとうの原因を見据えた世直し、それはゆるしを実践して来た人達がつながることで達成するとイエスは言っていると思った。
「天国には一人では入れない」の意味がとてもよく分かった。
兄弟無しでは救済は決して訪れないのだ。

真紀子さんとの出会い、ラファエルさんの経験との符合、腰の重い私が北海道まで出かけようとあっさり決意したこと、何か大きな力が働いているのを感じた。

そしてきのう午後から、ZOOMを使ってのオンライン読書会が真紀子さんのホストで開催された。
北海道の森のひろばに集まったメンバー、大橋のりこさん、ラファエル、私、国内各地からのZOOM参加者が一堂に介し、3時間を超えるコース読書会になった。

その中で、真紀子さんがラファエルに私を紹介してくれた。
高校生の時のエピソードを「beautiful...beautiful...」と言ってくれた。
「北海道に行きますよー」と画面に向かって手を振る自分にびっくりした(笑)
これはやっぱり動いているのは「私」ではないのだな。

私は引きこもって完全な独学でコースを進めて来たから、、コースと自分、イエスと自分の関係性はとてもプライベートなものだった。
誰とも共有できない(したくない)心の一番奥深くでやってることだから、できれば一人で終わらせたかった。
でも、気づくの遅すぎだけど、コースの学びのゴールはゆるしと、兄弟とつながる(つながりを取り戻す)事だったんだと、やっと目が覚めた。
この二つが完了してはじめて天国に戻ることができる。
(天国から離れた事は本当は一度も無いけど)
そして、今まではコースがどこか個人の救済、個人の幸せの実現のために書かれた本のような気がしていたのだけど、イエスの見据えるゴールは世界の救済でしかなかった事も改めて実感した。
「個人」なんてどこにも存在しないから当たり前なのに、エゴ的に学びを進めていたからそんな風に思っていたのだ。
コースの学びが次の段階に入ったことをハッキリと自覚できたことがとてもうれしい。
思い切って殻を破ると決意することができてとても嬉しい。
そして殻を破ると決意したら「出会った」のだ。
兄弟と。すべての人と。
これは誰か「特別な」パートナーと出会えるよりも、100倍も嬉しいこと。
ゆうべは満月前夜の煌々とした月がきれいだった。
感謝、感謝の50歳の誕生日だった。




魚の小骨の違和感

Posted by michikosayura on   0 comments

今日阿蘇を車で走ってて、空気が澄んで景色がものすごく綺麗で、
それだからこそなのか、まるで喉にひっかかった魚の骨みたいな異物感を自分の心の中に感じた。
自分の中にひっかかる魚の骨・・・。これぞエゴの感覚。
でも魚の骨とは、ずいぶんと小さくはなったんだなーと思った。
それでも、どうしようもなく不快に感じてしまうのだった。
空と雲と、山と木々と、一緒になれないというもどかしさ。
一つになれないという分離感を、運転しながらどうしようもなく不快に感じた。
朝からちょっとナーバスになってたから、いつもより敏感になっていたのだと思う。
この小骨がひっかかったような分離感を消してしまいたい。
「自分という感覚なんていらない」
いつになく珍しくエゴに抵抗した。
美しい山々を横目に運転しながら「どうすれば?」とイエスに話しかけた。

「どうして『自分の心』だけ特別だと思う?
どうして『自分の思考』だけ特別に思うのだ?
心の中で起こる感情、思考。それらも、あの山、あの雲、風、木の葉と何も分かれていない一つのもの。
ただ一つの幻想にしかすぎない。」
という言葉とフィーリングが返って来た。
「あー、そうか」とはっとすると同時に、涙がこみあげて来た。
こうして文章にすると突き放されたような印象になってしまうけど、そうではなくて、丸ごとを許容されているような愛を感じて泣いた。

消したい消したいとエゴがエゴに抵抗する。
でもイエスはエゴを完全に「看過」して許容している。
青空にふと生まれる黒い雲を受け入れるように。
急に湧き起こる風を過ぎ去るままにしておくように。
「風に吹かれてはくるくると舞い続ける、一枚の木の葉(エゴ)の世話をしてあげなさい。」
という言葉も来たけど。これはわたしの思考なのだろうか?





エリザベス・ハイチ

Posted by michikosayura on   0 comments

日記を書こうとPCに向かうと書きたい衝動がシュルシュルと鎮火してしまうなー
フェイスブックに表面的なことは書けるのだけど、心の奥からの言葉を紡ごうとすると、しーーーんと静かで何も出て来ない。
では心の「奥」より若干浅めのレベルで書くとしようかな(笑)

先週の日曜日だったかな?朝から突然「森都心図書館に行こう」と思い立って出かけた。
読んでみようと思いつつ、なんだかんだで読んでなかったミルトンの「失楽園」を探してみた。
検索では「在庫あり」となっていて、本がある書庫の番号まで出てくるのになぜか見当たらず。
その本棚(ドイツ、フランス文学)をくまなく見ていたら「イニシエーション」という分厚い本に目が留まった。
ナチュラル・スピリット社から出ているし「これって精神世界コーナーにあるべき本じゃ?」と思いながらパラパラとめくった。
イニシエーションというタイトルから「また何か『特別性』のために解脱とか悟りを求めてる人が書いた本なんじゃないの?」と半分は取り合わないつもりで拾い読みしていたら、言葉の一つ一つが真っすぐに心に入って来て親近感を覚えた。
その後ミルトンの「失楽園」にも巡り合えたので、「イニシエーション」とどちらも借りて帰宅した。
分厚い本だけど、引き込まれて3日ほどで読んでしまった。
これはエリザベス・ハイチという1897年にハンガリーで生まれたヨガ・マスターの驚異の自叙伝だった。
「ヨーロッパで最古」のヨガスクールを立ち上げた人だ。
こんな人がいたなんて今まで名前も知らなかった。
そのはずで、この本自体は日本ではやっと3年前に出版されたものなのだった。
エリザベスは驚くほど克明に、自分がエジプトの王、ファラオの娘であると同時に妃であったこと、そして命をも投げ出す覚悟で激しく悟りを求めてイニシエーションを受けたこと、を記憶していた。
この自叙伝は、その時空を縦横無尽に超えたエピソードを弟子が綴ったものだった。
(横着にも)学ぶべきことは無かったけど、物語としてものすごく面白かった。
古代エジプトの人生でイニシエーションを受ける中で、エリザベスはまるで白昼夢のように未来の人生を「体験」する。
そこでさまざまな心理的葛藤や恐怖、苦悩を乗り越えて、経験そのものを通じてエゴを浄化していく。
だから本の最後の方に書かれているエリザベスの晩年のエピソードも、これが本当の彼女の人生なのか、はたまたイニシエーションで見せられている幻なのか、読者の方も曖昧になってくる。
そして、「真の人生」などどこにもなかったのだ、というリアリティを発見する。
たしかに面白かったけど率直な読後感は「疲れた」だった。
何に疲れたかというと、エリザベスの物語(人生)のストイックさとシリアスさ。
真我との一体化を遂げるって、こんなに痛い目やつらい目にたくさんたくさん合わないと果たせないものなのかなぁ。
真我との一体化を果たした人って、もっとユーモアや軽やかさがあるものじゃないかな。

「どの人生もリアルではない」ということ。これと同じような感慨を感じた映画をさっき見た。
ジャマン・ウィナンスという、日本ではほとんど無名の監督の「ザ・フレーム」という作品。
これの前の「INK」という作品も好きだった。
二つの作品には同じテーマがある。それは「贖罪」と「救済」
そしてどちらの作品にも、人生というのは「絶対」のものではなくて、それを生きる人間の自我によって自在にストーリーが書き換えられる映画のようなものだ、という監督の視点も描かれている。
監督はひょっとするとACIMの実践者じゃないのかな?という直感があって、検索をかけてみたけど、関連性のあるような記事にはヒットしなかった。
映像、音楽のセンスもとても好き。音楽は監督自ら作曲しているらしい。
ただ脚本がやや冗長で途中退屈してしまうのが玉にきず。

ACIM実践者で思い出したけど、自己啓発系の動画ですごく人気があるらしい(私は知らなかったけど)クリスというカナダ人が日本語で語るACIM入門の動画がなんだか良かった。
何が良かったかというと、クリスがとても一生懸命に、真摯にACIMを語る様子になんかきゅんと来た(?)から。
ACIMをできるだけ分かりやすく、正しく伝えたいというクリスの誠意が垣間見えるのがいい。
(話の内容は二の次らしい)